hirax.net::Keywords::「列車」のブログ



2007-11-23[n年前へ]

夕日と列車 

 奇麗な景色や、奇麗な時間がたくさんある日。いつもと同じ、そんな一日。

「夢を見続ける力のことを“才能”と言うのだ」
「そういう意味では、今回の芝居は、戸惑いつつも、才能は決して枯らさなかった人たちの物語ですから」

「裸足のままで飛び出して あの列車に乗って行こう。
ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない。
いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない」

「愛じゃなくても恋じゃなくても、決して負けない強い力を、
僕は一つだけ持つ」
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新幹線駅列車






2008-02-06[n年前へ]

走る電車の車両から消える乗客の謎? 

 電車に乗ると、よく運転席を眺める。ガラスの向こうに見える運転席周りの表示計を覗く。面白いのが、「電車の一両に乗っている人の数」の表示計だ。グラフィカルに、そのとき「各車両に乗っている乗客数」が表示されている。

 その「各車両に乗っている乗客数」は、車両重量で推定されているらしく、列車の運転中に少しづつ乗客数が変化したりする。駅と駅の間で、振動や加速度の影響のせいか、表示計上で2・3人の乗客が消えたりする。「走る電車の車両から消える乗客の謎」という言葉だけだと、まるで古典ミステリーのような現象で、何だか少し面白い。

電車電車






2008-06-23[n年前へ]

列車の振動音・鼓動のような「リフレイン」 

 列車に乗っている時に聞く音のような、リフレインを持つ曲がある。たとえば、それは岡村孝子の「電車」だ。「電車」は、さならがらレールの繋ぎ目を台車が過ぎていく時に発する音のように、(サビ前の部分で)ギターがアルペジオを淡々と奏で続ける。そのリフレインに歌詞が重なることで、音を介して、通勤電車に立つ主人公たちが浮かび上がる。

誰もが自分の生き方を見つけて歩いてゆくけれど、 私は変わらずに私でいるしかできない。
岡村孝子 「電車」

 RADWIMPSの「オーダーメイド」も、何かの列車に乗っているかのように感じさせるリフレインを持っている曲だ。この曲の魅力的なリフレインは旋律ではなくて、2回目のAメロから刻み始められるリズムだ。間をおきつつ小刻みに続くドラムの音が、まるで、いくつかの車輪がレールの継ぎ目で音を立てているかのように響く。響くリズムに歌詞も相まって、時間軸に沿って進む長距離列車の姿が浮かび上がってくる、ように感じる。

 生まれる前の瞬間に、「人を作る誰か」が「どんな風になりたい?」と「僕」に訊く。「人を作る誰か」は、色んなことを次々と「僕」に訊く。

 「大事な心臓はさ、両胸につけてあげるからね」
 どんな風がいい?と尋ね続ける誰かに、「僕」は「何か足りない・欠けている」ことを次々と選んでいく。いつも「僕」は不完全な片側を、選んでいく。
 右側の心臓は要りません。僕に大切な人ができてそっと抱きしめる時初めて、二つの鼓動が胸の両側で鳴るのが、わかるように。

一人じゃどこか欠けてるように。
一人でなど生きてかないように。
 そして、「僕」は「人を作る誰か」に「どっかでお会いしたことありますか?」と最後に逆に問う。いつだったか、その「誰か」に会ったことがあるような気がして、「生まれる前」のさらに前だったか、あるいは「さらに後」なのか、「輪廻」か「デ・ジャヴ」か、「どっかで会ったことがある」気がして「僕」はその「誰か」に聞く。
どっかで、お会いしたことありますか?

 そういえば、「リフレイン」は「主だった旋律の前にそれと同等かそれより長い前語りを持つ楽曲の形式」を意味だという。けれど、「繰り返し・反復」を意味することも多い。小さなメロディが何度か繰り返されることを、意味することも多い。
 それは、まるでこの曲が歌う歌詞と小刻みに響くドラムの音が描き出す「不完全なものを繰り返し選択肢・回り続ける輪廻のような世界」を連想させる。

 「望み通りすべてが叶えられているでしょう? だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ」
 「人を作る誰か」は誰だろう。それは、もしかしたらそこら中にいる誰かなんだろうか、とも思う。 PVを見ていると、さらにそんな気持ちが強くなる。
「だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ。さぁ 誇らしげに見せてよ」
 「僕」が「人を作る誰か」になって、次の「僕」がまた「人を作る誰か」になり、そんな小さなリフレインが聞こえてくるような気がするこの曲は、「涙」や「誇り」や「望み」が混ざったスープのようなこの曲は、本当に素敵な曲だと思う。いいでしょう?

2008-06-26[n年前へ]

各席独立「振り子制御」の自動車はいつか登場するか? 

 BOSEのボーズ・アクティブサスペンションの公開写真・動画などを見ると、車体を水平に保つように制御していることがわかる。だから、荒れた路面の上でも乗客は揺れを感じないことになる。しかし、コーナリング時を考えると、車に乗っている人は左右へ揺れ動かされるような遠心力を感じてしまう。

 もちろん、ボーズ・アクティブサスペンションのような、車体を水平に保つような制御をかけることがない場合には、つまり、カーブ外側に傾く(ロール)ような場合には、左右へ揺れ動かされるどころでなく、それと同時に、車の乗員は上下に変化する加速度を受け、上に投げ出されるような力を感じてしまう。カーブ時にカーブ外側上方に体が浮かび上がる感覚というのは、かなり気持ちが悪く・不安になるものでもある。逆にいえば、そんな感覚を受けた運転手はスピードを(車の動きへの不安から)当然落とすことになる。だから、乗り心地はそれに比べればずいぶん良いに違いない。

 カーブを高速に走らなければならない特急などでは、列車車体を水平に保つのではなく、カーブ内側に傾けるような「振り子制御」を行うものもある。カーブ内側に列車の車体を傾ければ、カーブ時に外に引っ張られる遠心力が乗客の足もとの方向へと働くことになる。ということは、振り子制御をすれば、左右に揺れ動かされる感覚が減ることになる。さらには、カーブ時に受ける感覚が、「カーブ外側上方に体が浮かび上がる」ようなものではなくて、「体が下方向に(抑え)固定される」ような感覚に変わる。つまり、乗客がより「安心」を感じるような動きにさえ変わる、ということである。

 それならば、車のサスペンションもそんな振り子制御をすれば良いか、というとそういうわけでもない。カーブ(コーナリング)時に「体が下方向に(抑え)固定される」ような感覚に変わってしまう、つまり、これまでとは逆に「安心」を感じるようになってしまう。これはあまり安全ではない。

 まるで、タイヤのグリップ性能が増したかのように、あるいは、路面に適切なハングがついているかのように運転者感じてしまったならば、コーナリング時に適切な減速を行うことをしなくなってしまう可能性が高い。運行速度が厳密に守られている列車と違い、車の速度制御に対する運転者の自由度が高い車では、車の運転者の感覚に対し「車の状態」のフィードバックを適切に与える必要があるわけだ。車の状態に応じて、適切に「不安」「安心」を運転者に感じさせるのが安全なサスペンション設計である、ということなのだろう。

 しかし、運転者以外の乗客にもそういった『車の状態に応じた適切な「不安」「安心」』を感じさせた方が良いかどうかは、判断が分かれるところだと思う。運転手と同じように車の揺れを感じた方が良いかもしれないし、それとは逆に、車の素直な状態を感じる・知ることもなくただ安心して乗車していることができた方が良いのかもしれない。

 もし後者の考え、つまり運転者とそれ以外の乗客が受ける感覚も違った方が良いということになるならば、運転手とそれ以外の乗客に対する姿勢・上下位置制御が違った方が良いということになりそうだ。つまり、車の(少なくとも)運転席が車体と独立に「振り子制御」されるような自動車を作れば良い、ということである。

 そんな運転席と乗客席が独立に動く「振り子制御」自動車はいつか登場するだろうか?それとも、「運転手(席)」というもの自体が未来の車には存在せず、運転はすべて自動で行われるようになっていて、そんな各席独立「振り子制御」などそもそも必要なくなっているのだろうか。

2008-10-27[n年前へ]

「電車の吊り手」のヒミツ 

 いつ頃からだったか覚えていませんが、「電車の吊り手」の構造が昔とは変わったように思います。「電車の吊り手」が以前とは、90度違う方向にぶらさがっているような気がします。以前は、吊り手をぶらさがる金属棒と吊り手が同じ向きを向いていたような気がするのですが、いつの頃からか吊り手をぶらさがる金属棒と吊り手が直行するようになりました。

 鉄道が大好きのテツちゃん、血液中には鉄分が流れまくり・・・というわけではないのですが、この列車の「吊り手」の方向変化にはとても興味を惹かれます。吊り手のベルト部分を剛体に変え、吊り手の(乗客が)掴む部分の方向を90度変えるという変更は、一見すると小さい変更のようでいて、実はとても大きな変更・効果が生じているように思えます。

 というわけで、まずは吊り手の写真を撮りました(怪しい人ですね)。話の先は、吊り手と乗客の振動解析をし、さらには乗客がどのように意識すれば一番揺れないで済むのかを考えてみようと思います。

吊り手吊り手








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