2003-02-20[n年前へ]
■CONNECT THE DOTS
はてなダイアリの「おとなり日記」を眺めながら、一瞬だけど強く何かを感じた。日記を書いてる何処か遠くの隣の誰かの生活を考えた。実際のところ、何を感じたかはすぐに忘れてしまったのだけれど、とにかく一瞬だけど強く何かを考えた。
「できたらいいな」と思うことはたくさんあるけれど、「できること」はとても限られていると思う。ごく限られた「できること」を積み重ねていくしかないのだろう、と思う。だけど、そんな小さな「できること」を実際に目に見える形で現実のものにすることと、単に口で語ることはもう大違いだ。だから、「日記によってお互いの存在、同じ時間に生きている事を実感する事ができる、そういうことで得られる元気や、幸せの方がよほど現実的ではないか」という言葉はとても良いな、と思う。
バラバラに描かれた数字を線で結んでいくと、いつか大きな絵が完成するCONNECT THE DOTというゲームみたいに、「できる」小さなことを「辞めずに」続けていれば、何かの絵がきっと浮かび上がってくるんだろうな。
そういえば、SPAの連載中の鴻上尚史が書く「ドン・キホーテのピアス」の先週辺りからの話はちょっと興味を惹かれる話かもね。
2003-02-28[n年前へ]
■アリとキリギリス
今日は職場の送別会。同じ場所にいる人もいるし、違う場所に行く人もいる。
私はアリとキリギリスならキリギリスになりたい、と今は思う。アリの方がいいと思う人もいるだろうけれど、私はキリギリスになりたい。それで、激昂する人もいるかもしれないけれど、人はそれぞれ違うものを信じているのだから歩いていく方角も違う、ということだけだと思う。アリは幸せに老後を過ごせば良いし、私は冬が越せなくてもキリギリスになりたいと切望したりする。ただそれだけ。
2003-05-26[n年前へ]
■講談社文庫 v.s. はてなダイアリーヘッダの色占い
じゃぁ、というわけで、講談社文庫の作家達を「はてなダイアリーヘッダの色占い」してみました。さてさて、どんな対応になっているでしょう…。
蔵前仁一、下川祐二、阿部穣二 →頑固で古風な一面を持つあなた。 あるひとつのサブカルチャーに強いこだわりをみせる 傾向があるようです京極夏彦、高村薫、森博嗣 →厭世的なあなた。ついつい後ろ向きなことを書いて しまう。けれど独自の着眼点が多く、ありがちなことを 言わない傾向藤沢周平、井沢元彦、司馬遼太郎→達観したあなた。大人の意見で悠々自適。 後ろ向きというほどではないけれど、日常での「グチ」を こぼしやすい本田勝一、田原総一郎、大前研一→人から大人びて見られるあなた。風雅で知的で、ちょっと 自省的な面があるようです。他人との関係に悩みすぎて いませんか?この色のほとんどの方が、戦争について 書かれています。内田康夫、原田宗典、伊集院静 →理知的なあなた。好奇心旺盛で、それをうまく人に伝える のがお上手です。見出しのつけかたが適切で、知らない人 でも何が書いてあるのかわかりやすくなっています。田辺聖子、平岩弓枝、山村美砂 →かわいらしいあなた。ネットの上では幸せな空間を作って いきたいとお考えの方が多いようですし、 だいたい成功しています。東海林さだお、椎名誠、村上春樹→ひかえめなあなた。「自分の日記がそれほど面白いはずも ないし、マイペースで行こう。」そういうスタンスが、 いい方向に出ています。見る人がみれば面白いとか、 ためになる日記が多いようです。 きっと私生活でもひそかに頼られる存在なのでしょう。当たっている当たっていないはさておき、面白いかも。
2003-11-29[n年前へ]
■わたしの「よかった探しリース」
クリスマスが終わるまで、きょろきょろしながら「よかったこと」を探してみる。幸せのカケラ探しの旅ではないけれど、「よかった」探しの旅に出てみることにしようかな。というわけで、これから作る「わたしのよかった探しリース」
2003-12-03[n年前へ]
■そこでは誰が幸せになったのだろうか──。
私もこの文章と全く同じことを考える。この文章は目を通してみて、絶対に損はしないと思う。いや、ぜひ読んでみてもらいたい、と思う。特に、弱者ではない人達に。
見知らぬ人同士が共有する密閉された空間を、平和に維持できるのは、われわれが無関心を装っているからだ。驚くほどの美人がいて激しく気になっても、けっしてジロジロ見たりはしない。僕らはそういうふうにして公共空間を保ちながら生活している。例えば、絶対にリンクを張らないだろうサイトがあったりする。それは、とても素敵な短歌日記であるかもしれないし、それは好奇心に溢れたこどもの日記であるかもしれない。
もちろん、遠慮無しに失礼なリンクも張ったりはすることもあるけれど、それでもリンクを貼らずにじっと眺めているサイトだって確かにある。
ネットは常に開かれているのだから、それは誰の目に触れてもいいということじゃないか、と。見てほしくないならネット上で公開などするな、リンクフリーという原則こそがこれほどまでにネットを発展させたのだ、と。それは、とても「正論」のように聞こえるし、ネットに明るくない僕にも、それはある程度間違っていない、とも思う。この文章が「カフェ」だというはてなダイアリで公開されていることを少し面白く思う。自然とリンクで結びつけられがちで、カフェだけど直接民主主義の実験まで始まってたりする「場所」でこういう指摘がなされていることをとても興味深く思う。
だが、結果としては、誰も幸せになっていない──僕がひとつだけ気になって仕方ないのはこの点だ。それを考えると、杓子定規に「ネットの理念」たるものに依拠することの正当性や「正論」にも疑問を覚える。