2004-01-25[n年前へ]
■カッコがつかない…?いやきっとつく。
『「強弱」の定義って、ナニ?』というツッコミをされた方の名前に、ふと必然を感じたので書いてみようと思います。
前に
弱者はなかなか強者にはなれないし、強者は弱者をほとんど例外無しに理解し得ない。と書きました。昔の文章を書き直すのもどうかと思うので、書き直しはしませんけれど、
「弱者」はなかなか「強者」にはなれないし、「強者」は「弱者」をほとんど例外無しに理解し得ない。と書き直しておけば良かったかな、とは思っています。「カッコ」を付けておけば良かったな、と思っています。文章で書くなら、…チョーさん風に言えば、「いわゆるひとつの」という感じです。「いわゆるひとつの」強者、「いわゆるひとつの」弱者という感じでしょうか。いくつもある言葉の意味の中の一つ、という感じかもしれません。あるいは、それだけでなくて、もっとシニカルな意味が入っているのかもしれません。
例えば、-アメリカという「正義の味方」-というニュアンスや、-あなたは誰にでも「いい人」でいたがるのね-とか、そんな感じかもしれません。その「正義の味方」や「いい人」というのは、本当に正義だったり良かったりするかどうかはちょっと疑問、ていうニュアンスがありますよね。そんな感じかもしれません。 …「かもしれません」なんて書いていると言うことは、つまりは書いてみたけれど、私自身よくわからないわけです。
結城さんのインタビューの中で、「強い人」「弱い人」とカッコ付きなのが、そんなニュアンスで書かれたのかどうかは判りません。編集者の方がつけたのかもしれませんし、あるいは結城さんが特にそういう意図でなく、カッコをつけてみただけかもしれません。ただ、そのインタビューを読んで、あぁやっぱりその「強い人」「弱い人」にはカッコがついているなぁと私は思ったのでした。
それでも、もしも『なにか「強い人」の定義があったらなぁ』と思うのでしたら、例えばこういうのはどうでしょう?例えば、結城さんの「強い人」へのアドバイス、『世の中には「正しければ良い」って思う人がいるんですよね。正しければ相手に何を言っても良い。相手の本当の姿なんだから、相手に突きつけても良い。正しいことがすべてだ、と』というアドバイスが必要な人が「強い人」だ、というちょっと逆向きな定義はどうでしょう?『「正しければ良い」って思いがちな人』が「強い人」だ、っていう定義はどうでしょう?あくまで「カッコつき」の「強い人」の定義になってしまいますけれど。
もちろん、気になされている定義というのは「カッコのつかない」ものに対する定義なのでしょう。ところが、実のところ、私は「カッコがつかない強い人」というものをその言葉の意味も含めてよく想像することができません。意味すら想像できないのですから、そんな人が実在するのかどうかなんて、全然わかりません。もしも、そんな強い人というものが実在するのなら、それは「人じゃない」んじゃないか、とすら思ってみたりします。つまり、もしも「カッコをつけなければ」人は全て弱いと思っているわけです。そして、それとは逆に「強い人」というのは、もしかしたら「自分にカッコをつけてしまっている」のかもしれない、とも思うわけです。
2004-04-21[n年前へ]
■折田先生像がやってくる。
昨日の、「自己決定」を謳う側もそして「自己責任」を問う側も「自己」に重きを置いていないようにも思えてしまったりもする、という一文へのこんな言葉。
それはもしかしたら、自己決定の先にあるのは「わたしに構わないで欲しい」ということであり、自己責任の先にあるのは「あなたのことなんか知らない」ということになってしまうからではないだろうか、とか思う。つまり、あなたとわたしの関係性の放棄。そうか、確かにそうなのかもれない。そして、そんな一文を読んだ後に、今では折田先生像に新たな命を吹き込んだことでも有名な戸田氏の日記を読む。
イラク人質問題をめぐって「自己責任」という一見自明の言葉が飛び交っているが、これはかなり眉唾物である。…そういう目に見えやすい「自己責任」だけ、この国の国民は追及するのだ。…しかしながら3人のもと人質にも言いたいことはある。あなた方の正義感と勇気には敬意を表するが、もっと自分たちの行動を「政治的」にとらえてほしい。
折田先生像は日独伊三国同盟が結成された年に建立された。そして、イラク軍がクウェートに侵攻したその年に折田先生は初めて「怒る人」に姿を変えた。それからは毎年のように氏は私たちに何かを伝え始めるようになった。米国がイラク侵攻を行った年には、彼はゴルゴ13の姿で何かにライフルを向けた。
無言のまま折田先生がさまざまな姿で伝えようとしているものを想像しながら、先生の像と共に世界の出来事を振り返るのももしかしたら良いのかもしれない。折田先生像はただ人を楽しませるだけのものではないのである。
2004-05-08[n年前へ]
■三年前の今日見た景色と「誕生日が同じでも」
さらに Imaginary Placeを読んでみる。
「自分の誕生日がアンパンマンの誕生日と同じ日なんだと知った。星座も同じなんだから、きっと似ている所がどこかあるはず。だけど私は正義の味方じゃない。空も飛べない。美味しそうなほっぺも持っていない。似ているところが見つからない。探して、探して、探して・・・ やっと共通するところが1つだけあった。悪者のことがそんなに嫌いじゃないってこと」
誕生日データベースで私も自分の年月日で眺めてみる。きっかり十年前が布施博、きっかり十年後が、小泉孝太郎、ちょうど同じ年月日なのが沢村一樹。 あぁ、確かに似ているところが見つからない。あぁ、キャラクタ誕生日一覧を見ると「けろけろけろっぴ」のはすの上けろっぴとも同じだ。
2004-06-05[n年前へ]
■ヒーローと正義
C-MagazineでC++や開発環境の連載を担当したこともあり、東映テレビの特撮ヒーローもののプロデューサーでもある白倉伸一郎の「ヒーローと正義」
ポルノ規制を求める人は、だれかよその人がポルノを見ると悪影響を受けると主張する。「俺がポルノを見たら、何をしでかすかわからないぞ」という人はいない。その方が、よほど説得力があるにも関わらず。 正義だの道徳だの倫理だのをめぐる言説は、そうして、つねに「だれかよその人」の問題であり続け(後略)
英語で「右」"right"が正しいように、日本語でも左は「悪」で右が「善」であり、善玉は右・悪玉は左に立つ、という記載が面白い。だから、ウルトラマンのスペシウム光線も仮面ライダーのライダーキックも、もっぱら右から左へ放たれる。そして、善玉どうしでも、右側に立つ方が位が高い、というのがジャンルを問わず見られる傾向だという。ヒーローものに限らず、恋愛ものからポルノまで日本の映像全体で。
■神は定義・分類し続ける
旧約聖書の冒頭で神はあらゆるものを二つに分け続け、それを善であるかを「定義」し続ける。「『善』と『悪』を区別できるようになる」知識の木を食べて、呪いを受けることになる人とその子孫の間には敵意が置かれ、人は人の頭を踏み砕き、人は人の踵に噛みつくことになる。
from ヒーローと正義「象徴的二元論の罠」
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