hirax.net::Keywords::「正義」のブログ



2005-01-03[n年前へ]

「左の未来」と「右の正義」 

inside out「ヒーローと正義」「20世紀最後の戯曲集」 「左の未来」で思い出すのは、「英語で右 = rightが-正しい-のと同じく、ドラマにおいて善玉は右・悪玉は左に立ち、ウルトラマンのスペシウム光線も仮面ライダーのライダーキックも、もっぱら右から左へ放たれる」と書く「ヒーローと正義」だろうか。それとも、「右目(right eye = 正しい目)」を失明し「左目(left eye = 残された目)」だけで眺める世界を描く「Right Eye」だろうか。

のこされた私と、のこされた瞳は今日もまた目の前のものだけを見る。君たちと右目の代わりに。それでも、のこされたものは、のこされた瞳でのこされた夢を見つづける義務がある、いや自由がある。あのカメラマンが、それでもシャッターを押したように。あの戦場の光の真下で、悠久の時へ向けて。   「Right Eye」

2005-01-15[n年前へ]

WEB日記の言葉削除依頼 

「ヒーローと正義」 日記のエントリーについてのメール. ふと、(C-MagazineでC++や開発環境の連載を担当したこともあり)東映テレビの特撮ヒーローもののプロデューサーの白倉伸一郎「ヒーローと正義」の一節を思い出す。現在の仮面ライダーは「改造人間」になったり(手術前後の子供を不安にさせたり、手術をする側を職業差別すると捉えられる可能性のあること)、「(道具の力を借りたものではない)自分の肉体能力としてのキック力」を備えたりすること(そのような能力を備えていない人の「足を踏む」可能性のあること)はできなくなっている、と書きつつ下のように言う。

「足を踏まれた者の痛みは、踏んだ者にはわからない」よく言われる言葉である。…(中略)…足を踏まないために、もっとも確実なのは、近寄らないことなのである。…(中略)…<踏まれた痛み>原則にもとづくかぎり、…あらゆる媒体から「被差別者」とされる存在は抹消されていかざるをえない。「こっちに来て」という声があっても、だれかの足を踏みそうな場所に足を踏み出すことは許されない。「足を踏まれた者の痛みは、踏んだ者にはわからない」のだから。  白倉伸一郎 「ヒーローと正義」 子どもの未来社

2005-04-01[n年前へ]

「自分でない誰か」という言説 

 「リスナーへの愛が全く感じられません」という「リスナー」を引き合いに出すような言説、あるいは「みんなが困る」という言説、つまりは、自分でないだれかよその人を引き合いに出す言説を見聞きするたびに思い出すのは、この

ポルノ規制を求める人は、だれかよその人がポルノを見ると悪影響を受けると主張する。「俺がポルノを見たら、何をしでかすかわからないぞ」という人はいない。その方が、よほど説得力があるにも関わらず。 正義だの道徳だの倫理だのをめぐる言説は、そうして、つねに「だれかよその人」の問題であり続け(後略)
や、この
1人称で語れ、語れなかったことを他人のせいにするな。自分への怒りと憎しみを他人への憎悪と不信にすりかえるな。それさえしなければ、世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。 かつてすりかえた経験のある1人として、私も同じことを言いたい。
という言葉だ。

2005-04-26[n年前へ]

「悪の定義」 

 「悪の組織」を「絶対に失敗を許さない組織」とする定義は素晴らしい。

TV番組で見かける「悪の組織」には必ず1つの特徴がある。「失敗を決して許さない」ことである。たいていの場合死をもって償うことになる。悪の組織の目的や編成はそれぞれ異なるが、꓊꒼꒫꒳꓎엀꓋꒪꒤꓆꓀꒱꓏짔믗뗄꓋냬쏗꒹ꓫ躡

LIMG http://www.imd-g.com/puz_04_2_22a.htm r /site_thumbnails/20050427001605s.jpg 逆・裏・対偶 そういえば、数多くある「悪」自体の定義の中で、私が一番しっくりくるのが「悪は滅びる」という定義である。対偶で言うならば、「滅びなかったとしたら、それは悪ではない」という定義である。だから、「いつまでたっても滅びない必要悪」は悪ではないのである。「悪循環」だって、グルグルと循環しているうちは悪ではないのだ。テレビ番組に出てくる「悪の組織」は、最終回で正義の味方に倒されて滅びたからこそ、「悪の組織」と公式認定されるのである。

 一方、「悪は滅びる」の裏命題に一見見える「正義は勝つ」という「正義」というものに対する定義もある。そして、その対偶は「勝たなかったとしたら、それは正義でない」というわけだ。勝ち続けなければ正義ではない、という定義で縛られる組織、つまりは「負け、というものが許されない正義という組織」 …その正義は「失敗を決して許さない」悪の組織とどう違うのだろうか?ベン図を描いて、正義と悪を眺めてみることにでもしようか。

2005-05-05[n年前へ]

「何でもやればできる、という言葉」 

 ところで、 「未来予想図」は多数決で想像したり決めたりするものではなく、「未来は実際に作りだしてしまえば良いもの」ということを考えるとき、例えば「技術者と作業員」の

技術者とは、大勢の人たちが無理だと思っていたり、どれだけ試行錯誤してもうまくいかないような(例えばコンピュータに関連する)技術的な難題を、人並み外れた凄まじい問題解決能力で解決し、たちどころに目的を達成してしまう能力を持つ特殊な人たちのこと。多くの場合、置換不可能である。誰でも勉強すればなれる訳ではない。
登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記 - コンピュータ・エンジニアのような言葉を連想してしまう。「人並み外れた凄まじい問題解決能力でたちどころに目的を達成してしまう」ような人であれば、「未来を実際に作りだしてしまう」こともすぐにできそうだ。しかし、そんなことはなかなかできることでもなさそうだけれど…とも思ったりする。

 以前、ペトロ三木が「ジェネジャン!」の何かの回で、他のタレント出演者たちに向かって
(芸能界で成功するのは才能のある一部の人間だけだろ)(才能あるヤツが)「何でもやればできる」みたいな発言をするから、ありもしない才能を信じる奴らが増えるんだよ。おまえらは社会に対して無責任なんだよ。
So-net blog:ペトロ三木のブログ:ペトロ三木から重大発表!!日テレの「世代密林」はしゃべり場のパクリ!!いうようなことを言っていたが、その言葉が頭の中にプカプカ浮かんでくる。「ぼくは別に何かの才能があるわけじゃない。誰でもみんなやろうと思えばできると思う」と語る堂本光一に、ペトロ三木が「アンタのルックスは(みんながみんな持っているもののはない)立派な才能だろ」とツッコんでいたのを思い出す。(社会に対して無責任とは思わないが)誰でも「何でもやればできる」わけではないよなぁ、と思ったりもする。そしてまた、「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あついは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。もしかしたら、それは「夢」を見たり、「夢」を見させたりする能力なのかもしれない。

 登 大遊氏は尋常でない才能の持ち主だし、伊藤直也氏だってそれは同じだ。彼らの言葉を「なるほど」と熟読しながら、ふと我に返ると「12人の怒れる男」の正義を追求するヘンリー・フォンダではなく、人の意見に激しく左右されてしまう「12人の優しい日本人」になる自分がいる。彼らの言葉を眺めていると「…_|‾|○」という気持ちにもなったりするけれど、そんなorzな気分は「アラン・ケイの直筆サイン(The best way to predict the future is to invent it !)入り高座扇」ででも吹き飛ばすことにしてみようか。



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