hirax.net::Keywords::「社会」のブログ



2004-01-24[n年前へ]

「RTは安心を創造するか」 

21世紀COEプログラム 第1回国際シンポジウム 「RTは安心を創造するか」 主催 21世紀COEプログラム 「超高齢社会における人とロボット技術の共生」 日時・場所 2004年2月7日(土) 13:00〜18:00 早稲田大学文学部38号館AV教室 懇親会 18:00〜20:00 文学部カフェテリア 講演者 ・Prof. Rodney A. Brooks (MIT) ・Prof. Paolo Dario (Sant'Anna) ・谷江 和雄 先生 (AIST) ・幸田 昭一 様(東京都福祉局) ・笠木 伸英 先生(東京大学) 参加費・懇親会費 無料 http://www.waseda.jp/prj-rt/

2004-03-20[n年前へ]

集合とその補集合の境界線をひく、ということ 

 センのパラドックスは、言い換えれば「万人に奉仕する社会はどうやっても作り得ず、一部の人間にとっての社会しか作り得ない」ということなのだろうか。そして「一部の人間」と「その補集合」を区切る絶対的な線を引くことはできず、誰かが…
というおれカネゴンの「算数記」の文を読んでから、「センのパラドックス」を説明する『合理的な愚か者』へ。

 定義域の非限定性(=どんな変なヤツもいるような社会?)であれば、「リベラル」的かつパレート的な(=どいつのわがままも聞きながら、みんなが満足するような?)社会決定はできない
というその証明の解説は「はてなダイアリー」の「はてなダイアリー評議会」などの一連の動きを連想させ、さらに集合Aの補集合のさらにその補集合がその集合Aだと、なんとも当たり前のこともふと考えさせられる。集合Aになれなかったものがその補集合なのか、それともその補集合になれなかったものこそが集合Aなのか、消去法で決まる側はどちらなのか、とふと考える【補集合の補集合とはおれカネゴン】。

2004-03-22[n年前へ]

「ポジティブな自分」と「ネガティブな自分」 

 補集合の補集合から連想し、「「社会学」の科学哲学」を読んでみた。

 初めに、社会像の提示の仕方には、その論理形式に応じて二種類の方法論があることを確認しておこう。
 まず、「社会とは・・・なものではない」という否定的表現による社会像の提示がある。つまり、明らかに現代社会的で「ない」社会を見つけることにより、現代社会をその「補集合」として言い表す、と言う方法である。
 つまり「補集合」の「補集合」として−研究対象の社会像を浮かび上がらせるのである。
 しかし、それは結局「否定の否定」という操作を行っている以上(このネガティブな提示は)トートロジー(同語反覆)であり、いったい「何が」現代社会的か、という疑問には答えるが、「何故」現代社会がそのような姿になっているのか、という疑問には答えない。
 そこで次に求められるのは「社会とは・・・なものである」、という肯定的提示を行う「ポジティブな提示」であろう。しかし、それはネガティブな提示とは違い、一筋縄ではいかない。
 つまり、社会とは「・・・なもの」として認識可能なものなのであろうか?社会は、ひょっとするとカント曰くの「物自体」や、ヴィトゲンシュタイン曰くの「語り得ぬもの」なのかもしれないのである。
 「何かである自分」がポジティブな提示による自分なら、「何かでない自分」はネガティブな提示による自分なのだろうか。そして、それが「何かになれる自分」や「何かになれない自分」などという提示なら、提示方法だけでなく内容的にもそのポジティブさだったりネガティブさはさらに増すに違いない【何かになれないおれカネゴン】。

 そんな自分に少し迷ってしまうなら、いっそ「自分」を「他人でないもの」とネガティブな提示で表してしまうのも良いのだろう。そして、トートロジーの迷路の中で、果たして自分や他人が「語り得るもの」かどうか、右往左往しつつ迷ってみるのも一興だろうか。

 と、一瞬迷いつつも、そんな自分は一言で「バカ」とカントもヴィトゲンシュタインも言い表してしまうに違いない、と何故だかポジティブに思い至る【たった二文字でおれカネゴン】。

2004-04-04[n年前へ]

萌え論 

萌え論 「超萌え代数」を支える理論、それが「萌え論」だ。この理論によるならば、全ての人を数平面上に散らばらせてみたときに、「第1象限にたたずむ奴らそれがヲタクである」らしい。すると、「他の各象限はどうなのか」という疑問は当然湧き上がるに違いない。その疑問に答えるのはこれを読んだ人の誰かかもしれない。

 算数は実生活で役に立つが数学は役に立たないという人もいる。しかし、数学が経済学や工学を支えることも多い。経済学や工学であれば、実生活に近いと感じられるだろうから、数学も実生活で役に立つと納得もしてもらえるものかもしれない。こんな萌え学だって、社会の何かを支えることも多いかも? それが、どんな社会であるかはさておき。


2004-04-27[n年前へ]

今日の神さま 

 AmetPerl(AmetMulti)のインストール方法。参考になります。うぅ、ありがたや…。

 そういえば、私の実験室には「エクセルは敵だ!」という標語がホワイトボードに大きく書いてあります(本当)。で、「マウスクリックは一日百回まで」という、標語も小さく(残念ながらこれも本当)書いてあります(だけど、こっちはさすがに無理だった)。で、少し前に今年の新人くんからはExcelを取り上げて、代わりにPerlやら、GnuPlotやら、ghostscriptやら、そこら辺のソフトをインストールさせました。で、何も知らない新人くんに、まさにパワーハラスメントで「みんな、Atokでワンライナーだよ。AtokでGnuPlotだよー。PSは手書きだよー。みーんな、そーだよ。それが社会人の常識だよ。えー知らないのー?」と教えました。いや、教えたというよりは、力ずくでそう言い放ったわけです。

 ふと、昨日その新人くんに「**くんコンピュータって好き?」って聞いてみたわけです。すると、小さな声で「…もともと苦手だったのですけど、ますます好きじゃなくなりました…」と呟きました。彼にこれまでに課した(実験の片手間で、コンピュータなんか使わない部署の割には)凄まじいコンピュータ地獄を考えると、そりゃ、そーだよなー、と思ったわけです。何しろ、彼はこれまで「あのね、実は明日トラックにイッパイのアレが来るの。しかも、三度に分けて。だからさ、明後日までにFlashMob I位のこと完成させてね。あっ、でも悪いけどFlashMob Iと違って全て一人でね」なんていう地獄を考えると、まぁ当たり前なわけです。

 彼がWEBで日記書いたら面白いかもなぁ…。あまりに、不幸で…。



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