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1998-11-29[n年前へ]

鴨川カップルの謎 

そうだ、京都、行こう


 京都の風物詩の一つに「鴨川カップル」がある。京都を流れる鴨川の川縁に、カップルが等間隔に並ぶ現象である。鴨川の三条大橋から四条大橋までがその舞台である。この鴨川カップルについては、いくつかの性質が知られている。

  1. 基本的にはカップルらは等間隔に座る。
  2. 暗くなるに従い、カップル間の間隔が狭まる。
  3. 電灯の近く、すなわち、比較的明るいところではカップル間の間隔は広がる。
  4. 夏はカップルの間隔が狭まり、冬はカップルの間隔が広がる。
  5. 夏はカップル数が多く、冬は少ない。
  6. 男性が連れ立って、しかも何人かで座っていると、その周りにはカップルはなかなか座らない。
 以下に、具体例を写真により示したい。なお、これは1998年の11/21日の17時前後に撮影されたものである。冬における測定のため、カップルの間隔は非常に広がっている。目測によれば15m程である。これが夏の夜であれば5m程にはなる。
鴨川カップルの例
いい雰囲気の2人

(四条大橋の上から撮影)
移動中の鴨川カップル
これは男同士。2人で語り合っている高校生男子。

(この後、1999.05.04午前中に撮影した画像も示す。午前でもあるにも関わらず、上の時より密度が高い。もちろん、夜の密度の高さはこんなものではない)

1999.05.04午前中に撮影した画像

 今回の目的は、「鴨川カップル」のこのような性質はなぜ生じ、そこに効いているパラメータを実測することである。

 まず、性質2,3(暗くなるに従い、カップル間の間隔が狭まる、電灯の近く、すなわち、比較的明るいところではカップル間の間隔は広がる)より、明るいと隣のカップルと離れようとする力が大きくなると予想される。また、カップル同士が離れようとする力、斥力、のバランスにより性質1(基本的にカップルらは等間隔に座る)が形成されていると考えられる。

 性質3(夏はカップルの間隔が狭まり、冬はカップルの間隔が広がる。)の季節による間隔の違いは性質4のカップル数の違いから来ているのかもしれないし、それ以外の何らかのパラメータがあるのかもしれない。性質4(夏はカップル数が多く、冬は少ない)はやはり「寒さ」のせいであろう。京都は本当に寒い。いくらアツアツのカップルとは言えども、寒いものは寒い(多分、想像だが)。当然、建物の中でのデートとなるだろう。自ずと、鴨川カップルは少なくなる。

 性質5(男性が連れ立って、しかも何人かで座っていると、その周りにはカップルはなかなか座らない)については、「男性の群れ」というのは普通のカップルに比べて非常に強い斥力が働いていると考えられる。この性質5に関しては、私の実体験を持って語ることができる。私と友人連中が鴨川の川岸に近づくと、座っている鴨川カップルが離れていく、という経験を何度もしたことがある。やはり、強い斥力が働くのだ。

 計算は全てMathematica3.0を使った。計算の例をMathematicaのNotebookで示す。また、計算の考え方を以下に示す。

計算方法
 鴨川の川縁を真上から見た所。画面上部が鴨川。画面下部が歩道。画面中央に街灯がある。そのため、画面中央が一番明るい。
 カップル達はこの辺りに座る。
対称性を考えて、画面の左半分のみを考える。また、赤い線上にカップルが座るものとする。
 その線上の明るさを模したもの。X=100の所が街灯の直下とする。

 このような明かりに照らされた状態で、カップルが照らされているとする。
また、他のカップルが他のカップルに見える明るさは距離に反比例するものとする。普通ならば、距離の2乗で反比例にしたいが、計算の簡単のため、こうした。
 こうしておいて、隣のカップルの存在感(=カップルの明るさ/距離)が左右で同じという条件をつけてやる。

 100m内にカップルが5組として方程式を解くとこうなる。棒グラフの先端の位置がカップルの座っている位置を示している。1組目は0m地点、5組目は100m地点、すなわち、街灯の直下である。
 明るい所ではカップルの間隔が離れているのが判ると思う。
 カップルの居心地(隣のカップルの存在感=隣のカップルの明るさ/距離)はいずれも、8という値である。カップルの居心地指数は少ないほど快適であることを示す。

 それでは、条件を振ってやってみたい。上からだんだん暗くなっていく。鴨川の半日である。また、カップル数はいずれも100m辺り5カップルである。

左から、真上から見た鴨川の川縁、左半分の明るさ分布、左半分のカップルの位置、カップルの居心地
20
16
10
8
6.4

 昼間はカップルが等間隔であり、夕方になり、街灯で照度分布ができると、カップルの間隔も分布ができている。といっても、そういう条件で解いているのだから、当たり前だが。
 また、カップルの居心地は暗くなった夜の方が快適であるのがわかると思う。それは、カップルの様子を見ていても、その通りであると思う。しかし、快適であるからといって、カップルが何をやってもいいという意味ではない。そこは、はっきりしておきたい。

 今回は、カップル数を全て同じにしたが、逆に同じ居心地指数であるという条件下で解けば、夜の方がカップルが多いという性質も再現できる。これらの計算モデルと実験を比較していくことにより、鴨川カップルの性質を実証していくことができるだろう。なお、今回は計算の簡単のため、男性連れの効果は組み入れていない。また、いつかもう少しまともな計算をしてみたい。

 計算を行った感想だが、実に不毛な計算であった。気が向けば、モンテカルロシミュレーションによる鴨川カップルの検証も行いたい、と思う。が、気が向く日はきっと来ない。

1999-03-30[n年前へ]

ペットボトルロケット 

天まで昇れ

-天まで昇れ-

 先日、2月21日、糸川英夫が死去した。ロケットを研究し続け、日本のロケット技術を築き上げた人である。

ISAS(宇宙科学研究所)の歴史(http://www.isas.ac.jp/info/history/index-s.html)

 そこで、私たちが簡単に打ち上げることのできる、ペットボトルロケットについて考えてみたい。ペットボトルロケットは素晴らしい科学おもちゃだ。ロケットが大気中を飛ぶときと、宇宙空間を飛ぶときの原理の違いを的確に体現していると思う。それは、ペットボトルの中に水を入れてあることだ。ペットボトル中に水を入れることで、革命的ないくつかの効果があると私は思う。挙げてみると、こんな感じだ。

  • 空気と水の粘性の違い->水の方が長時間にわたり一定の噴出量にしやすい。
  • 気体(空気)と液体(水)の圧縮性、質量の違い->
    • 空気を噴出する場合には、ロケットの前後の圧力差が推進力を支配する。
    • 水を噴出する場合には、反作用力(運動量保存)が推進力を支配する。
水の質量は摂氏4度で1000kg/m^3である。気圧が変わっても温度が変わって(0-100程度なら)ほとんど変わらない。例えば0度の時999.9kg/m^3であり、100度で958.4kg/m^3である。
 空気のほうは温度が違うと結構違う。摂氏0度で1.293kg/m^3であり、100度で0.946kg/m^3である。もちろん、気圧が違えば、それに比例して体積は大きく変わる。

 結局、空気と水とでは質量が約1000倍違う。だから、ペットボトルロケットが後ろから水を噴出する場合には、空気の場合に比べて、1000倍もの反作用力を受けるのである。つまり、ロケットは1000倍の推進力を持つことになる。ただし、空気の場合には、ペットボトル中で数気圧分圧縮されているので、質量も数倍になる。したがって、正確には1000倍の数分の一ということになるだろう。

 逆に、ロケットの前後の圧力差を考えてみる。、空気の場合には、前後で数倍の圧力差が生じるだろうが(WEBで調べると5-7倍位が通常上限のようだ)、水の場合には前後での圧力差はほとんどないだろう。だから、水を噴出する際にはこれによる推進力はほとんど働かないだろう。しかし、空気を噴出する際にはこの圧力差によりロケットは進むことになる。真空中ではこの方法では推進力はほとんど働かない。

 こういった違いをもとに子供(といっても高校生位か)に宇宙でのロケットの原理を説明すると面白そうだ。これら推進力の違いは、とても大きいと思う。

 かつては、セルロイドを使った小さなキャップロケットの時代だった。今は、ポリエチレンテレフタラート製の大型ロケットの時代に変わった。

 今日は久しぶりに雪が降った。「雪は天からの手紙である」と言ったのは、雪を研究し続けた中谷宇吉郎だった。ならば、私たちが打ち上げるペットボトルは天へと届けるロケットだ。空へ高く届くように、私たちはそれを打ち上げ続ける。いつか、私たちのロケットは天へ昇る。

1999-10-18[n年前へ]

沸点と数学の挑戦状 

みつからない「解決編」


 いったい、いつから疑問に思うことをやめてしまったのでしょうか? いつから、与えられたものに納得し、状況に納得し、色々なこと全てに納得してしまうようになってしまったのでしょうか?
 いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。
 何もスフィンクスの深遠な謎などではなくても、例えばどうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか、そんなささやかで、だけど本当は大切な謎はいくらでも日常にあふれていて、そして誰かが答えてくれるのを待っていたのです....。
加納朋子 ななつのこ より

 加納朋子の「ななつのこ」という小説を読んだ。創元推理文庫から出ているのだから、ミステリといっても良いだろう。私の好きな北村薫の「空飛ぶ馬」に始まる「円紫さんと私」シリーズによく似た雰囲気を持つ本である。

 それを読んで、ふと思い出した。

 私が通っていたM高校の話だ。M高校は武蔵野の玉川上水のほとりにある。

 そのことを聞いたのは月曜の朝だ。日曜日の昼間に変質者が現れたというのである。目撃した人によれば、変質者は生徒用の上履きを履いていて、手には白い布を持っていたという。顔などはよくわからなかったそうだ。目撃者に驚いた変質者は逃げてしまい、白い布を落としていった、というのだ。
 
 それだけなら、「単なる変な奴がいた」ということで話は終わった筈だ。問題は、その白い布に麻酔薬が含ませてあったという点だった。悪ふざけではすまない。

 私は友人の鴨志田とその事件について話をしていた。気になることがあったからだ。変質者が目撃された場所が問題だったのだ。図に描くとこんな感じだ。

M高校2F平面図
現場写真

 そこは2階の中では職員室から一番遠い。一番校門に近い玄関を揚がった所である。そして、生物室の隣だった。
 生物室は、普通の教室とは違う。通常は鍵がかかっているし、それは鍵がかけられるということでもある。

 生物部の部長・副部長は生物室の鍵を使える立場にあった。そして、鴨志田は生物部の部長だった。

「変質者は生物室に出入りできる奴かな?」
「生物の部長・副部長経験者ってこと?」
「うーん。」
これはどうにも重大な問題だったのである。

「麻酔薬ってクロロホルムとか、かな?」と鴨志田にぼくが言うと、「立て板に水」状態で、彼の推論を聞かせてくれた。

「いや、きっとエーテルだね。」
「今時、クロロホルムなんて使われていないんだよ。」
「副作用もあるしさ。」
「あと、沸点を考えてみろよ。」
「エーテル、つまりジエチルエーテルDiethyl Ether ( (C2H5)2O )は沸点が34.6℃だ。」
「それに対して、クロロホルムChloroform ( CHCl3 )は沸点が61.7℃だ。」
「ハンカチにクロロホルムを含ませて顔に当ててもなにもおきない。」
「だけど、エーテルは人間の顔にあてたら、体温のせいで瞬間的に気化するんだよ。」
「つまり、エーテルの気体で顔の周りが覆われるわけだ。」
「呼吸なんかしたらエーテルを吸わざるをえないだろ。」
「だから、クロロホルムとかよりエーテルのほうが、変な用途には向いているんじゃないかな。」
「もっとも、即座に気を失うとは思えないけどね。」
 なるほど説得力はある。いや、ありすぎるといっても良い程だ。コイツ、むちゃくちゃ怪しいヤツである。犯人候補No.1である。一朝一夕で考えた理屈とは思えない。
「そういうことって生物部の部員ならみんなわかるもの?」と聞くと、
「部長・副部長をやるくらいの人は確実にわかる。けど、他の人でもわかるやつはきっと多いよ。」
また、部長・副部長経験者である。

「ところで、生物室にエーテルはある?」と訊くと、

「うん、あるよ。」
「生物室に入れる人なら手に入ると思うよ。」
とのお答え。やはり、生物室の「鍵」である。
「せめて靴の先の色がわかれば。」
「学年がわかるね。」
そう靴の先の色は赤・黄・緑と色分けされており、それで1,2,3年生の区別がつくのだ。もっとも、それと関係ないサンダルを履いている人のほうが実際は多いのであるが。それに、靴を履いていたから学内の生徒とは限らないが。

 次に、ぼくらは覚えたばかりの数学の知識をひけらかす(まだ高校生だから)話をしていた。

犯人(変質者)の条件

  • 生徒用の上履きを履いてた。
  • 麻酔薬に関する知識がある。
  • 麻酔薬を手に入れられる。
  • 生物室に入れる。
  • 一人
これは犯人の「必要条件」といえる。

ここで、私は
「ぼくは生物室の鍵を持っていないから、必要条件を満たしていないな。」
つまり、「生物室に入れる=鍵を使える=生物の部長・副部長経験者」であるから、「ぼくは必要条件のひとつを満たしていない」と主張したのだが、鴨志田は聞き入れなかった。。
「オマエに鍵なんか必要ないだろう。」
そう、物理部の部長(私のこと)になるには「錠前破りが得意」でなければならなかったのである。すなわち、物理部の部長経験者であると「生物室に入れる。」ということの「十分条件」をもれなく手にしてしまうのである。イヤーなおまけである。もっとも、私は生物・化学は苦手であるので、必要条件を満たしていない。

一方犯人の「十分条件」を考えてみるとこんなものがある。

  • 生物部の部長・副部長
これだけで、全ての必要条件を満たしてしまうのである。といっても、それはやはり単なる「十分条件」である。しかし、上の必要条件は明らかに「生物部の部長・副部長」よりも大きいだろうから、「必要十分条件」にはなりえないだろう。

犯人と生物部の部長・副部長と私に関する関係
「ところで、こんなミステリがあったらどう思う? 探偵がめちゃくちゃ論理的なヤツでさ。」
「コンパクト群の表現論なんかで語られてさ。」
「犯人を指摘する所なんか、数式だらけな話。」
「作家はMathematicaをワープロ代わりにしててさ。」
「......なんか、一般受けしそうにないな...おれにすら面白くないぞ...」
 さてさて、普通ならばここに「読者への挑戦状」が入るところだろう。だから、この話にも入れてみる。ただ、少し定型とは違う。
読者への挑戦状
 ここまでに、犯人を示す証拠が全ての証拠がそろっているとは思わないし、そもそも、犯人が登場しているかどうかすら私にはわからない。いや、実際のところ登場していないと100%確信している。しかし、名探偵のあなたなら、きっと犯人を指摘してくれるに違いない。私と鴨志田の懸念を吹き飛ばしてくれるに違いない、と思うのだ。

 犯人は一体誰なのだ...


2000-12-22[n年前へ]

子供の科学 

 少し前に本屋で「子供の科学」を立ち読みした。末尾の広告に懐かしくもドキドキした。そして、「めざせプログラマ!」がどうなっているのか興味深く読んだ。私の感想としては、私の好きだった「子供の科学」としては失敗だと思う。ファインマン物理学が大学生・高校生のみならず中学生・小学生に見せても良い教科書であるのと違って、少なくともこの連載は「子供の科学」向きではない。別にこの連載の内容自体が悪いなんていう資格はとてもじゃないが私には無いが…。

2001-02-19[n年前へ]

ひとりで書いてるだけだから。 

ヘッポコ文章を直したい


   面白い情報を探しにと「お笑いパソコン日誌」を眺めていると、「ウエヤマの事件簿」の「他人の日記をオモチャにしよう!」が紹介されていた。「お笑いパソコン日誌」に〜『できるかな?』風ネタであります〜と紹介されてあった通り、実に私好みの話だった。ウエヤマ氏が「自分で書いてる日記の文章」を解析して、文字の出現頻度を調べてみたものである。

 「できるかな?」は画像や科学の関連の話が多いように見える。しかし、実はそれだけではなくて文章や日記に関する話も多い。例えば、これまでに出てきた話を振り返ってみると、

に始まり、と続く、「文学の世界を眺めてみよう」という話など、あるいは「WEBページで見かける文体の特徴を解析しよう」としたなど、あるいは「WEB日記の文化を眺めて見たい」というなどの話があった。「技術サイト」という分類をされることも多い本サイトではあるのだけど、非技術的な話に強引に技術的な話を持ち込みたくなったり、技術的な話なのに何故かとても私的で非技術的な話が入ってしまったりするのが、良くも悪くも「できるかな?」の特徴だろう。もちろん、良いことでは全然無いのだけれど、こうでも書かないと悲しい気分になってしまうので、「良くも悪くも」と書いているのである。

 そういったhirax.netの特長ならぬ特徴は私が書く文章が下手なせいなわけで、そんなヘッポコ文章から脱出するべく、私の書く文章の特徴を調べて反省してみることにした。もちろん、自分のヘッポコ文章だけを眺めてみてもしょうがない。他の素晴らしい文章を書く書き手と比較しなければならないだろう。そこで、今回はいくつかの文章を品詞解析し、その結果の特徴を調べることにする。そして、書き手による文章の特徴が眺めながら、私のヘッポコ文章の欠点を調べ、さらには誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたい、と思うのである。
 

 さて、まずは目標を決めよう。私がヘッポコ文章を脱出してどんな文章を目指すかを、何より先に決めなくてはならない。となれば、あまりにも大それた目標ではあるのだが、やはり日本の文豪、夏目漱石は外せないだろう。そして、その教え子でもある寺田寅彦もやはり外すわけにはいかない。一応私も理系のはしくれ、日本の理系文章の流れを作ったこの二人を目標にしなくてなんとしよう。ヘッポコ文章を脱出していきなり、夏目漱石と寺田寅彦というところに無理があるが、そんなことを考えていては駄目なのである。「少年よ大志を抱け」とクラーク博士も言ったのである。もう少年と言うにはどう考えても年齢的に無理があるのだが、気持ちはまだまだ少年で目標は大きく持ってみたいと思うのである。

 そして、もう一人の目標は「ちゃろん日記(仮)」をマイペースに書き続ける「ななゑ」さんである。私は彼女の書く文章を読むたびにとても素晴らしい理系的センスが感じ続けているのである。しかも、理系的でありつつも笑いと涙のペーソスたっぷりの「ちゃろん文体」という独自の確固とした文体を築いているところも尊敬していたりするのである。

 というわけで、今回の文章の比較は

  1. 夏目漱石
  2. 寺田寅彦
  3. ちゃろん日記(仮) ななゑ
  4. 「できるかな?」 jun hirabayashi
の四人の書き手の文章を適当に二つずつピックアップして、その文章を品詞解析して簡単に特徴を眺めてみることにした。各書き手に対して、それぞれピックアップした文章はである。なお、夏目漱石と寺田寅彦は「青空文庫」から入手した。そして、これらの文章を日本語形態素解析システム茶筌&perlで解析後、Excelでさらに解析・表示を行ってみることにしよう。

 ところで、形態素解析とはどのようなものだろうか。まずは、例を挙げよう。例えば、

私が好きな書き手達は、夏目漱石、寺田寅彦、ななゑさんです。
という文章を茶筌で分解すると、
  1. 私 名詞-代名詞-一般
  2. が 助詞-格助詞-一般
  3. 好き 名詞-形容動詞語幹
  4. な 助動詞
  5. 書き手 名詞-一般
  6. 達 名詞-接尾-一般
  7. は 助詞-係助詞
  8. 、 記号-読点
  9. 夏目 名詞-固有名詞-人名-姓
  10. 漱石 名詞-固有名詞-人名-名
  11. 、 記号-読点
  12. 寺田 名詞-固有名詞-人名-姓
  13. 寅彦 名詞-固有名詞-人名-名
  14. 、 記号-読点
  15. ななゑ 名詞-固有名詞-人名-名
  16. さん 名詞-接尾-人名
  17. です 助動詞
  18. 。 記号-句点
というようになる。このように各文章を品詞毎に分解して、その出現分布から特徴を調べてみるのである。なお、今回注目した品詞は
  1. 読点
  2. 形容詞
  3. フィラー
  4. 感動詞
の四つである。この四つを選んだ理由は、読点は明確な決まりがないだけに書き手の感覚が入りやすいと思われ、形容詞、フィラー・感動詞に関しては書き手の気持ちが素直に現れやすいと思われるからである。ちなみに、フィラーとはから引用すれば、「あのー」「えー」といった語句ということになる。まずは各文章が書き手によってどのくらい特徴づけられるかのイメージを掴むために、形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとり、各文章を二次元の世界に配置してみた結果を図示してみよう。
 
形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとって、
各文章を二次元の世界に配置した結果

 結構、同じ書き手による文章が同じような位置に配置されることがわかると思う。ちゃろん日記(仮)などは、二つの独立した文章がほとんど同じ位置に配置されている。もう、ちゃろん文体は安定しまくっていて完成されているのである。そしてまた、「文豪」夏目漱石の場合も、「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」がかなり近い位置に配置されていることがわかる。

 なるほど、結構書き手による特徴はこんないかにも雑な解析でも評価できるものなのかもしれない(あくまで「遊び」だけどね)。そして、形容詞の出現頻度などは、「雪だるまがいる景色」と「自然と生物」以外は大体同じようなものである。寺田寅彦の「自然と生物」は妙に形容詞の出現頻度が高いところが面白いところである。私の「雪だるまがいる景色」はあまり技術的な話ではなくて、確かに形容詞が多そうな話ではあるのだが、一体「自然と生物」はどうだっただろうか?

 ちなみに、「できるかな?」からの二つの文章は共にフィラーが一個も出てこない。その他の6つの文章にはフィラーが出てくるのであるが、何故か「できるかな?」の二つの文章にはフィラーが含まれていないのである。この差がなければ、寺田寅彦の二編と「できるかな?」はかなり似た場所に位置するのであるが、このフィラーは特に違うのである。

 さて、上の図ではフィラーと形容詞の出現頻度だけを眺めてみたが、読点、感動詞の出現頻度も加えて、クラスター分析を行ってみた。つまり、「読点・形容詞・フィラー・感動詞」の出現分布が似ているものを分類してみたわけである。クラスター分析にはExcelアドイン工房「早狩」の統計解析アドインを使用させて頂いた。ちなみに、クラスターの結合はウォード法を用い、非類似度計算法には標準化ユークリッド平方距離を使用した。その結果が下の図である。
 

クラスター分析の結果

 このクラスター分析の結果を示す図は近い文章をまとめていったものを示している。つまり、文章の「近さ」あるいは「似ている度」を示しているのである。ちゃろん日記(仮)の二編は本当によく似ていて、また夏目漱石の書いた二編も互いに似ている。そして、それより「近い度」は低いが「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」は「科学について」に近くて、「雪だるまがいる景色」は「自然と生物」に近い。おして、さらに似ているものを探せば、ちゃろんの二編と「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」・「科学について」は似ているといえなくもない、さらに言えばその四編と夏目漱石の二編が似ている。

 ここでは、四人の書き手がいるということが私には判っているので、あえて四つのクラスターに分解してみると、

1.
    • 「雪だるま」がいる景色
    • 自然と生物
    2.
    • 新宿駅は電気羊の夢を見るか?
    • 科学について
    3.
    • ちゃろん日記1998(仮)11月上旬
    • ちゃろん日記1999(仮)6月上旬
    4.
    • 我が輩は猫である
    • 坊ちゃん
という風になる。やはり夏目漱石とちゃろん日記に関してはこんなチープなごく少数の品詞解析でも、「作者の文体が同じである」と解析されてしまうのである。なかなか、スゴイとは思わないだろうか?数多くの解析をしてみるのもなかなか面白いと思う。高校生のレポートくらいだったら、これで何とか書けそうである。

 しかし、その一方で考えてみれば寺田寅彦の名随筆と「できるかな?」のヘッポコ文章が「文体が近い」と解析されてしまっているわけなので、実はこの解析の信頼性はかなり低いと言わざるを得ないところもあるのである。いや、もしかしたら「文体は同じやけど、内容が全然違いますがな」というような冷たいアドバイスを解析結果は言わんとしているのかもしれないが、もうそれは哀しすぎる事実なので考えたくないのである。

 さて、そう言えば一番最初の図で「できるかな?」と寺田寅彦の差はフィラーの出現分布だったわけであるが、「大学の講義における文科系の日本語と理科系の日本語-- 「フィラー」に注目して --」では、「聞き手への働きかけのあるフィラーが多いということは聞き手への配慮が大きいということにつながる」と書いてあった。ということは、フィラーの出現分布は聞き手への配慮に比例するというわけで、「できるかな?」の文章にフィラーが出てこない、ということは読み手に対する配慮がない、なんてことなのかなと思ってしまったりするのである。

 そんなことを考え出すと、ホラどうせひとりで書いてるだけだから読み手のことなんか考えていないのさと、思わず涙がこぼれてしまうような哀しい気持ち、になったのである。う〜む、最初は誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたいと思ったったのに、何でこんな結論になるんだろう?

 答え: それは文才がないからです。ハイ。
 
 



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