2001-10-24[n年前へ]
2001-10-29[n年前へ]
■今日の加納朋子 「月曜日の水玉模様」の文庫本
図書コーナーで「月曜日の水玉模様」の文庫本を買った。ハードカバーを持っているにも関わらず買ったのは、解説をじっくり読みたいから。
「日常の謎」ミステリーが好きな人にとって、「解説」というのはこれもまたミステリーの謎解きそのものだと思う。自分が眺めていた小説の中の景色を「ほぅら、こんな見方もあるでしょう?」と解説が書くことで、その景色をまた違った場所から眺めたストーリーを描くのだから。
でもって、この本の中の「毎日、乗り降りを繰り返す通勤電車の中で出会う、数百、数千の人達。彼らの一人一人はいったいどういう暮らしをし、何を考え、どこへ向かっているのだろう?」なんて加納朋子らしくて良いなぁ。瞬間写真コレクションも思わず連想してしまう。
2001-10-31[n年前へ]
■今日見た景色 ビルの合間に出てる月
さっきの写真が下を眺めてみたところ。こっちが空を見上げたところ。(リンク)
2001-11-05[n年前へ]
■Floating Lanterns
Loykratong
先日、満月の夜に灯篭流しを見た。果物や蝋燭や色んなものを籠に一杯に詰んで、川に流されていく灯篭を見ていた。川に灯篭を流しながら、お祈りをしている人達をぼんやりと見ていた。亡くなったものたちを供養したり、色々な祈りを込めたりして灯篭を流す人達を見ながら、「あぁ、これは本当に言葉どおりの”水に流す”ということなんだなぁ」と、ふと、だけどとても強く納得した。色んなこと哀しいことを、遠くへ過ぎ去ったものとして遥か遠くに流して行くことは、この灯篭流しと本当に同じもので、だからそれが「水に流す」ことだ、としみじみと思ったのだった。
私が見ていた灯篭流しは、灯篭を川の水面を経て遥か遠くへ流すものだったけれど、灯篭を流す先は別に川を流れる水だけではない。例えば、こんな風に灯篭を空の彼方に流す灯篭流しだってある。川に流した灯篭と全く同じく、空に流した灯篭が空一面で美しく煌いている。空の彼方でも、川の流れる果てでも、どこか遠くの果てに「お供え物や色んなもの」を流すことが「水に流す」ことそのものなのかなぁ、と思ったのだった。
下の写真は、灯篭を流す人達を遥か橋の上から眺めながら、デジカメで撮ったものだ。まるで、歩いてゆく人の流れが水の流れのように写っている。水の流れも人の流れも、それは結局は同じようなものかもしれない、とこの写真を撮りながら少し思った。
昔、遥か彼方に通じる海が近い地域であれば、自然と海につながる川がいつかどこか遠くの世界に辿り付くための通り道で、そこから「お供え物や色んなもの」を載せた灯篭船がはるか彼方へと流されていったのだろう。そしてまた、遥か海から離れた地域では、もしかしたら川でなくて空が「どこか遠くの世界に辿り付く入り口」と考えられ、だからそこから灯篭が遥か彼方に流されていったのかもしれない。
そして、遥か彼方に通じる海から離れていて、どこか遠くへ水が流れていく川も無い地域では、どこか遠くの世界へ移動してゆくものは、もしかしたら「人」しかなかったのかもしれない、と思う。だから、「お供えものや色んなもの」を託す相手は人しかなかったのかもしれない。だから、「いつかどこか遠くの世界に辿り付くだろう人達」に「色んなもの」を託し、人々は色々な祈りを込めていったと思ったのだ。
さらに、心に浮かんだ思いをそのままに書いてしまえば、「いつかどこか遠くの世界へ辿り付くだろう人達」はもしかしたら子供達だと人々はかつて考えたのかもしれない、と想像してみたりする。だから、家々を廻る子供達にお菓子を託すハロウィンも、歩いて行く子供達を船や気球に見立てた灯篭流しだったのかもかもしれない。子供たちに「色んなもの」を託して、自分達には辿り付けない遥か遠くの世界に送り出したのかもしれない。と、根拠は全く無いのだけれどそんな風に想像していたのである。
これが、満月の夜に灯篭流しをする人達を見つつ、私が心に浮かべた不思議な確信だった。