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2007-08-28[n年前へ]

越前屋表太と海辺の景色 

 夏の終わり、太陽が真上に昇る頃でも、風が涼しい。

 越前屋俵太がとても好きだった。街を歩く人々やあるいは、犬や猫にインタビューを続ける姿がとても楽しく面白かった。
 水に反射して写る空や草は、偏光フィルターをかけて覗く世界の様にとても鮮やかで美しい。鏡に反射して映る道や水に反射して映る世界にとても惹かれる。
 スーツを着て海に入り、「わたくしを含む生物がここから生まれてきたのです」と言いながら潮に流されて(画面の端に消えて)いくという状況が笑える。
 東京から長野まで歩いた。子供心に「歩き終えたら、何かになれる」ような気もしたけれど、結局そんなこともなかった。
 世界のどこであっても、人…、できれば猫でも犬でも出会った生き物を笑わせたいです。

2008-02-11[n年前へ]

「ギャラリーフェイク」と「コピー」 

 美術の歴史を知ると面白く感じる。そして、ミステリー=謎解きも好きだ、と感じる人がきっと好きになるマンガが「ギャラリーフェイク」だ。時には、「カルマン渦」や経済学者でもあったマンデルブローの"株価変動予測"フラクタルを考える「連立不当方程式」といった理系心をくすぐる話も詰まっている(13巻目第2話)、そんなマンガだ。

 「フェイク」つまり、「偽造した絵画」を題材にしたマンガ「ギャラリーフェイク」を読むとき、いつも思い出すのが「コピーの時代」という美術展だ。『現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています』という言葉で幕が開く美術展を見たとき、感じたのは「コピー」が持つ劣化性だ。そして、「コピー」が持つ「進化能力」言い換えれば「可能性」だ。

 時に、自分が何かの「コピー」になってしまいそうに感じる瞬間がある。影響を受けたものをただなぞるだけ、になってしまいそうになる。しかも、幸か不幸か「テキストをなぞるのが不得手」なせいか、劣化コピーになってしまうことが多い。

 …これは困ったものだと感じながら、そんな時は、小器用なコピーでは、無限縮小コピーになってしまいそうだから、「とても質の悪いコピー」は「一種の進化だ」と眺めなおそう、と思ったりもする。小器用な縮小コピーを続けていたら、原始生物も人類も生まれなかったかもしれないし。

2008-07-07[n年前へ]

「25年前に宇宙人へ送信した画像添付メール」の原画 

 今日は7月7日、七夕の日だ。そういえば、一月と少し前に、「25年前に電波送信した宇宙人へのメッセージ画像の原画が見つかった」というニュースを読んだ。6年前、「七夕の夜に願うこと」で書いた 「スタンフォードの46mのパラボラ・アンテナからアルタイルに向けて送り出された、13枚の画像添付メール」の原画だ。

 地球からアルタイルまでの距離は約16光年。メッセージを乗せた電波信号は99年に到着している。知的生命体が住む惑星が存在し、すぐに返事を送ったとすると、2015年に地球へ届くことになる。

 この原画だったか、あるいは、そのためのラフスケッチだったか、そんな画像を見たことがある。「少年ジャンプの企画中で、電波に載せて宇宙人へメッセージを送信してみるんだ」と、父が描いたラクガキを見せながら、父は愉快げな顔で話をしてくれたように思う。

 宇宙人から返事がくる可能性はほとんどない。
「でも、それでいい」
 宇宙人へのメッセージは、生物の進化を示す画像群は、なぜかエタノールの分子式で終わる。ビールか何かを飲みながらそんな「低解像度のエタノールの分子式」について語る送信者の話を聞いていた覚えがある。
 西暦2000年に送られた、アルタイルへの電波メールが宇宙空間をこの瞬間も秒速30万kmで伝播し続けている途中かもしれないと夢想してみるのも、とてつもなく楽しいことだと思う。

 これから続く夏の空を眺めつつ、ビールでも飲みながら、天の川とベガとアルタイルのことや、酔っぱらい二人が送ったそんなメールのことを思い浮かべてみるのも、きっと気持ちが良いと思う。星空が綺麗な高原で、あるいは、星も見えないビル屋上のビアガーデンで。

2010-07-16[n年前へ]

人の心には「向き」がある 

 人の心には「向き」がある。向きをベクトルには方向がある。それを言い換えれば、ある座標(場所)から他の座標(場所)へと向かう量を定義するものだ。違う場所と違う二つの場所があって、重きを置く場所があって、そこから違う場所へと進もうとする「向き」がある、ということは面白いと思う。

 景色の良い場所で、遠くの青空と白い雲を見ながら、「生物と無生物」とか、「過去と未来」とか、とりとめのないことを話す。

 情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

hirax.net::Keywords::「江國香織」のブログから。
 わかりやすく物事を説明できる人の話を聞いていると、多くの場合、その人たちが私たちにわかりやすく話をすることができる理由に気づかされます。それは、その人自身の中で、話題・議論の中身について「十分に物事が整理されている」ということです。そして、その人自身の中で「わかりやすい話」として十分な理解が必ずできている、ということです。つまり、「説明術」の根本にあるのは「理解術」なのです。

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 そういえば、「時間」というのものには、自然で必然な「ベクトル」があるのだったろうか・あるのだろうか?そんなことを、江國香織の言葉を反芻(はんすう)しながら、ふと思う。
 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉のひとつひとつに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備(そな)わっている。双六(すごろく)風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像

2010-10-24[n年前へ]

魚も寝る時はベットの上で!? 

 大きな水槽の中を泳ぐ大小さまざまな魚たちを見ているとき、ふと目の前の景色のどこかに何か違和感を感じました。一体、どこが「おかしい」のだろう?と思いつつその原因を探してみると、「水槽の端の台の上に寝そべり動かない魚たち」にあることに気づいたのです。まるでベットの上でグーグーと高いびきをかきながら寝ているかのように、かなりの数の魚たちが休んでいるのです。

 人と同じように、魚も寝る時はベットの上で休むのでしょうか?水底にある砂の上ではなくて、少し小高い台の上で寝る習性でもあるのでしょうか。それとも、この風景は決して一般的なものではなくて、ほんの偶然のできごとなのでしょうか。

 水族館に行くのが好き、という人が多いように思います。そんな水族館フリークの人たちであれば、こんな魚たちのさまについて「なにをしているのか」「そんなことをなぜするのか」といったことについて、詳しく話してくれそうな気もします。

魚も疲れて寝る時はベットの上を選ぶのでしょうか。それとも、あの魚たちは別に寝ているわけではないのでしょうか?

魚も寝る時はベットの上で!?








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