2005-05-28[n年前へ]
■「狭い世界(せかい)」と「世間(せけん)が狭い」
最近はPCを介して作業可能な仕事もたまっているので、あまり意味のない雑務に追われそうな今週は外へ出ることにして、神戸大学で開催されていた「ヒューマン・コミュニティ創成研究センター開設記念シンポジウム」やら、niftyとココログ出版を行っているあさひ高速印刷へ行ったりしていた。シンポジウム中の分科会「数理科学と音楽の融合」では仕事?を一緒にしたことがある日本電子計算の方が講演の一部を担当されていたりして、「あぁ、世界(せかい)は狭い」と思った。そして、あさひ高速印刷でも「はてなダイアリーブック」を眺めながら、氏のはてなメンバーとの接点を伺ったり、「ハッカーと画家」の話などを伺うと、「世界は狭すぎるかも」とまた思った。しかし、すぐこんな風に考え直した。
確かに、「世界は狭い」かもしれない。なにしろ、「アメリカで、誰かが(自分の知り合いからスタートして)6人の人を介したら"=six apart"、アメリカ中の人が繋がっている」という実験があるくらいなのだから。日本だって、(日本の人口から、多く見積もっても)6人の人を介せば日本中の人と繋がっているわけなのだから。
しかし、そんな風にたった「6人という距離」で日本人が繋がっていることは「ハブ空港」のように非常に他の人との繋がりが多い人たちが存在しているから、である。そういう「ハブ的な人たち(多くの人に知られ、人を知っていて、人を繋ぐ人たち)」がいなければ、多くの人が近くで繋がったりはしないし、「世界が狭く」なったりしないのである。先の「世界は狭い」と感じさせた「日本電子計算の方」も「あさひ高速印刷の方」も「はてなの方々」も、おそらくそんな「ハブ的な人たち」なに違いない。だとすると、「世界が狭い」なんて風に驚く必要は無いように思える。
ところで、「数理科学と音楽の融合」の講演はジャンル的には大好きな話だったのだが、聴いていてちょっと辛くも感じた。おそらく「教授陣」の「世間が狭すぎる」せいだと思うのだが、(おそらく技術背景などの知識がないために)内容的に10〜20年以上は古い感じであった。(「狭い世間」で自分を育てなければならない)所属する学生さん達はちょっともったいないかも、と感じた。境界科学は「教授陣(時には上の人の真似をした学生自身の)の狭い世間」を理由とした、「閉ざされた社会の中で自己完結し、外にアウトプットが出ない」という病気にかかりやすいと感じることが多い。神戸大学のシンポジウムの場では、その典型的な症状を感じた。
「世界が狭い」と「世間が狭い」は180度違う。「狭い世界」を造り出すのは「知り合いが多いハブ的な人の存在」であり、「狭い世間」を造り出すのは、「周囲状況と繋がらず離れてしまっている人」である。「世界が狭い」は「広い世界」を引力が強い人がねじ曲げて色々な場所を繋げていた結果であり、「世間が狭い」は「広い世界」を知らず閉ざされている状況である。「世界が狭い」と「世間が狭い」は大違いなのだから、自分が考える「世界(というもの)」が、果たしてそれは「(自分の外に広がる広い)世界」なのかそれとも「(自分の周りの狭い)世間」なのかを問い直す作業が必要だと思う。
2005-06-01[n年前へ]
■絶望?希望?
わたしの初恋は、「仮面の忍者・赤影参上」の赤影さんでした。18歳のとき、赤影さんがポルノ男優になり、スポーツ新聞にひたすらエロを書き連ねて生計を立てているのを知ったとき、全てに絶望したような気がする。不潔よっ。なんだか、絶望どころか希望が湧くような気もしてくるのは…私だけでしょうか?「全52話うち、素顔を出したのは4話ほど」でも、「番組終了後はそのイメージが強すぎて、仕事に恵まれなかった」んですってね。「一時は赤影と呼ばれることを嫌い芸名を変更したこともあったが、久留米に戻ってからは『赤影から逃げられないのだったら、とことん赤影でやっていきたい』と話していた」というんですから、なんだかそこに「希望」「未来」を感じます。
MagMell Diary 2005年5月31日(火) 「萌えとワタクシ」
2005-08-31[n年前へ]
■「毎日かあさん」論争
『「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か 』 「教育的配慮」という言葉の意味・用法も使う団体・人それぞれなのかも。
何かを表現すれば、どこかにその言葉で傷ついたりする人はいる。もちろん、それを意識しないことは今ひとつ気持ちよくないかも、とも思う。西原理恵子の希有な才能と作品を読みたいファンとしては、「配慮」という言葉のもとに、何も表現しないのは何だかとてもツマラナイとも思う。
2005-09-03[n年前へ]
■「組織」のデザイン・パターン
「組織」に関するデザイン・パターン集というものがまとまっていても面白いかも知れない、とふと思った。典型的な(必ず起きる)問題と、それらに対する典型的な解決策を書いた、そんな資料があっても面白いかもしれない、とふと考えた。典型的な組織に起こる問題に名前を付けて、パターン集として整理されていると面白いかもしれないと考えた。
いや、実際のところ、巷に溢れるビジネス組織を論じた本というものは、そんな「組織」のデザイン・パターンであるのかもしれない。例えば、「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、(いずれは)各々の「無能レベル」に到達する」という「ピーターの法則パターン」などは、その最たるものなのかもしれない。過去のパターンにはまっていないか、あるいは、過去のパターンとは「どの点が違うのか」というようなことを考えやすいチャートがあると、とても便利かもしれない。これは「このパターンの問題」にはまっているけれども、「対象の性質がこう違う」「周囲の状況がこう違う」「人がこう違う」というようなことがわかりやすいと良いかもしれない。
2005-09-13[n年前へ]
■「オトナ」と「コドモ」の境界線
Tech総研ブログに「オトナ」と「コドモ」の境界線を書きました。世の中には、「男と女の境界線」をはじめとして、色んな境界線がありますが、そのひとつが大人と子供の境界線です。そんな境界線について書いてみました。
あなたが思う「境界線」はどんな風にひかれているのでしょうか?そして、あなたが思う「社会のオモテとウラ」にはどんなものがありますか?