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2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2002-02-20[n年前へ]

「やおい」の評価演算子 

ベクトルの彼方で待ってて II

 東京駅近くの飲み屋「美少年」で、日本酒利き酒セットを目の前にしながら、私は珍しく「日本の政治」について話していた。といっても、単にそれは話し相手が社会部に属する新聞記者だったからである。で、その時の話題は小泉首相と福田官房長官の話だったろうか?

「福田X小泉っていうのは、結構上手くやっているのかな?」
と私が言うと、おもむろに
「あれは、福田X小泉じゃなくて、絶対あれは小泉X福田なのー」
とその記者が言ったのである。何を言っているのかその意味がよく判らないまま、「ん〜?」と私が首を傾げていると、繰り返し
「福田X小泉と小泉X福田は全然意味が違うのー」
と言い始めるのである。何が何だか訳がわからない。じゃぁ、何か?小泉X福田だと小泉純一郎が総理大臣福田康夫が官房長官だけど、福田X小泉だと福田康夫が総理大臣で小泉純一郎が官房長官になるとでも言うのか??政治の世界では、言う順番で総理大臣が決まるとでも言うのか?と私が口をはさむと、
そう。ただ、ちょっと政治の世界とは違う世界かも〜。政界じゃなくて、やおい界ではー。」
と言うのだ。なんだコイツ?政界は判るけど、やおい界って一体何処の世界の話だ??と、困惑する私も構わず、そこから延々と長い演説が始まった…。その大河ドラマのようにやたらと長い話を要約すると、
  • やおい → 一部の女性が好む「男性同士の恋愛もののストーリー」のこと
  • X → やおいの世界で恋愛の関係を示す記号。例えば、AさんとBさんが恋に落ちるであれば、Aさん×Bさんと表す。で、ここで重要なのは先に位置する方が「攻め役」となって、後に位置する方が「受け役」となる…。つまり、例えばサド侯爵とレオパルド・マゾッホであれば攻め役がサド侯爵で、受け役がマゾッホなので、サド×マゾなのである。決して、マゾ×サドではない…
というわけだ(用語集参照)。 で、先の「あれは、福田X小泉じゃなくて、絶対あれは小泉X福田なのー」という言葉は、「小泉純一郎と福田康夫は良いカップルで、攻め役は小泉純一郎で、受け役は福田康夫なんだー」と言いたい、ということらしいのである。なるほど、奥が深い…。 ……が ……いや何も言うまい…。

 で、日本酒を飲みながら、まだまだ続くその話に悪酔いしていると、「カップルの順序が重要なんだー」という言葉を聞いて、ふと中学の頃の数学の授業を思い出した。その頃、大学を出てまだ一年目の斉藤慶子似の数学の先生と話していたときに、「Hくん、あのね掛け合わせる順序が違うと結果も違っちゃう計算もあるのよ」と教わったことがあった。そんな言葉から私は未知の「数学の世界」をかいま見たりしたのである。 今考えてみれば、新任の斉藤慶子似の女性教師の個人授業なのだから、行列・ベクトルの掛け算の順序なんかじゃなくて、「もっと違う順序」を手取り足取り教えてくれても良かったんじゃないか、とか思ったりするし、そうすれば、私は未だ見ぬ「大人の世界」を覗き見ることができたのではないか、と思ったりもするのだけれど、そんなことは残念ながら無くて、私はただ「行列・ベクトルの世界」を覗いただけだったのである。

 で、そんな昔話を思い出したせいか、頭の中でこんな風に思ったのである。そういえば、これまで「できるかな?」では数多く「恋の力学」でも遊んできた。ただ、そこでは「惹かれ合う恋心の大きさ」だけに注目して、そのカップルの中での役割などは考えたことがなかった。そこで、今回は「やおい」のカップルの「役割・順序」に注目し、その「役割・順序」を評価する演算子を行列・ベクトルの掛け算になぞらえながら考えてみることで、これまでと同じく色々な「恋の形」を眺めてみたいと思う。
 

 まずは、色々な人物(実際の人物であったり、小説などの登場人物であったり)のタイプを二次元空間に配置しよう。「この人は結構攻め役が合いそう」とか「この人は絶対受け役が合うのだー」という適性を

  1. 攻めベクトル
  2. 受けベクトル
の二つのベクトルに分けて、二次元SM平面(本来、攻め = Active、受け = Passiveとでも表記するべきだとは思うのだが、意味合いと少し違うことも承知の上でs,mの方がどうもイメージが湧きやすいので、ここではS.Mを用いる)に配置するわけだ。例えば、サドくんとMくんをそのSM平面に配置してみると、次の図のようになる。
 
SM平面上のサドくんとMくん

 そして、カップリング適性では「A×B、B×Aが全然違う」ということから、外積(ベクトル積)をそのまま流用して、適当な評価関数を作ってみるのが自然だろう。まず、

カップリング適性ベクトル = (攻め度(s)、受け度(m))
と表記して、例えばAさんのカップリング適性ベクトルを(As, Am)と表すことにしてみよう。すると、Aさんが「攻め」でBさんが「受け」のカップリング適性は、この二人の適性ベクトルのベクトル積として表すことができる。つまり、
A×Bのカップリング適性 = ( As * Bm - Am * Bs )
                = Aさんの攻め度 * Bさんの受け度
                  - Aさんの受け度 * Bさんの攻め度
となるわけである。式を眺めれば判るように、Aさんの攻め度が高くて、Bさんの受け度が高ければ、この評価関数は高い値を返す。つまり、「A×Bの順序は正しいのだー」という評価を返す。つまり、「A×B」はなかなか良いカップルだー、と教えてくれる。また、もしAさんの受け度が高くて、Bさんの攻め度が高ければ、低い値を返す。つまり、「A×Bの順序は絶対間違ってるのだー」と評価してくれるのである。なんともありがたいことに(いや別にありがたくはないか…)、この「やおいのカップリング評価演算子」が「福田X小泉」と「小泉X福田」のどちらが自然なのかを教えてくれるのだ。試しに、上のサドくんとMくんであれば、「サドくん×Mくん」= (100,0)×(0,100) = 100*100 - 0*0 = 10000でとっても「良い感じ」でああるが、「Mくん×サドくん」= (0,100)×(100,0) = 0*0 - 100*100 = -10000で「このカップリングは絶対順序が違うー」と判るわけである。

 とりあえず、今回はこの評価演算子を作成するところまでで終えたいと思うが、いずれこの「やおいの評価演算子」を武器にして、いつか(?)「やおいの世界= やおい界」に限らず、色んな数多くの恋の関係を目に見えるようにしてみたいと思う。そして、これまで数多く考えてきた「恋の〜シリーズ」を充実させていきたいと思うのである。

 ところで、今回のカップリング適性評価演算子は基本的に外積そのものである。つまり、この演算が返す値は「二人のベクトルでできる平行四辺形の面積」に等しい。つまりは、「二人のベクトルでどれだけ色んな違うことがきでるか」を示す尺度である。そして、その値は二人のベクトルが直交する時、すなわち二人のベクトルが重ならず独立である時に最大値となる。つまりは、「二人のベクトルが違えば違うほど大きく」なる。例えば、先の「サドくん×Mくん」であれば二人のS,M趣向が完全に正反対であったからとてもお似合いのカップルになったのである。

 これをいわゆる恋の話で考えてみると、とっても独立な二人、趣味が重ならない二人がお似合いだということになる。なるほど、そんなカップルも世の中にはたくさんいることだろう。そんな人達を「外積タイプのカップル」と呼ぶことができると思う。

 一方、趣味が重ならないカップルだけでなくて、世の中にはそれとは正反対の「趣味が重なる良いカップル」も数多くいる。それは「内積タイプのカップル」である。内積はA,Bベクトル間の正射影に比例する量であって、つまりは「二人の重なるベクトルの大きさ」である。それは例えば、相手の中に自分を重ね合わせるような「二人の重なる部分が二人を結びつけるようなカップル」なのである。

 「理系と文系」・「男と女」が対極的なものでも、相反するものでもないのと同じく、「外積カップルと内積カップル」も別に二つに分けられるようなものではないだろう。「外積タイプの恋」も「内積タイプの恋」が混じり合って、それぞれに良いところもあれば、危ういところもあって、などと想像してみるのも面白いに違いない。そして、さらにはもしかしたらベクトル空間で萌えることができるようになったりするかもしれない。
 

 そういえば、ふと考えてみると以前「恋の形を見た人は」で最後に引用した本橋馨子の「兼次おじ様シリーズ」は男性同士の恋の話だった。つまりは「やおい」の話だった。そこで、もう一度そのセリフを最後に飾って眺めてみようと思うのである。
 

「愛はどんな形をしているか知っているか?」
「見た事ないからわかりません。」
「そうだ、誰も見た者はないのに、誰もが当然のように形づけて受け入れている...
もし愛に優劣を決めるものがあればなんだろう?... 異性愛か、同性愛か、そんなものじゃない  …たとえ、どんな形だろうと選ぶのはおまえ自身だよ。」
 

2002-02-21[n年前へ]

今日のありがとうございます。 

 なるほど、のご意見を頂いたのでここでもお礼を。
> ただ数学的に単に「定数だ」という主張はわからないでもない
> ですが、kという記号は普通はバネ定数力/距離に使います
> から、コンプライアンス距離/力に使われると少し違和感
> があります。例えば数式の中で周期にfという記号が使われて
> たら何となく嫌じゃありません?
 あぁ、確かにそう言われればそうですね。そう言われると、
仰るとおり、何となくイヤですね。確かに、kというアルファベットを
使うのは良くないかもしれないですね。
あの式自体は、話の後半にkを「ヤング率」としてオチをつけたいので
年と比例しないとまずいので、力/距離は使えませんからアルファベットは
yとでも直してしておきます。

 どうも、ありがとうございます。

 ところで、「数学的に単に定数だという(乱暴な)主張」って理学部っぽく
ないですか?もちろん、人によりとても違いはありますが、
そんな私みたいな大雑把な理学部系って多くて、一方そんなことは
あまりない工学部系ってイメージがちょっと湧いたりしたのですが。

2002-09-08[n年前へ]

君の歌は僕の歌 

竹内まりやの「平方根」

 半年ほど前、TBSのテレビ番組「USO」で放映されていた「竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎の歌に聞こえる」という話を観た。なんでも、その話は「ネット上をにぎわしている情報」ということだったのだけれども、ワタシには全然知らない話題だった。だから、その放映されていた「音程を下げた竹内まりやの歌」を聴いて、とてもびっくりした。確かに「山下達郎の歌」に聞こえるのである。そして、それにビックリすると同時にとても新鮮に面白く感じたのだった。

 山下達郎はワタシも好きだったりするし、しかも山下達郎は決して多作というわけではないので、「山下達郎が他人の曲をカバーをする新たな音源」をワタシが勝手に増やせるというのはとても魅力的である。そこで、ワタシは再生スピードを変えずに音程だけを変えることができるWinAmp + Pacemakerを使って、竹内まりやの「元気を出して」の音程を下げて、ワタシも山下達郎版「元気を出して」を作ってみることにした。それが下の二つのファイル、「元気を出して」の最後の部分の「オリジナル」と「音程を下げたもの」である。

これを聴くと、確かに山下達郎が竹内まりやの「元気を出して」を歌っているかのように聞こえるから不思議だ。単にそう耳に聞こえるだけではなくて、山下達郎が歌っている様子、そして山下達郎が竹内まりやに「君の歌は僕の歌」だよ、という気持ちを込めて歌っている様子すらワタシの頭の中に浮かぶのである。
 

 そこで、次に調子に乗って今度は鬼束ちひろの「流星群」の音程を下げてみた。今度は山下達郎が歌う「流星群」が手に入れよう、と思ったわけだ。ワタシの手持ちの音源全曲に対して山下達郎化計画を発動しようとしたのである。科学、いや単に"WinAmp+ Pacemaker"の力で山下達郎多作化計画を発動しようとしたわけだ。
  ところが、である。なんと「流星群」を歌っている歌手は今回は山下達郎には聞こえなかったのである。、そこには「流星群」をしみじみと歌いあげている平井堅がいたのだった。切々と「流星群」を歌い上げる平井堅の実に濃い顔がワタシの頭の中に確かに浮かんでしまうのだった。

何故、竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎になって、鬼束ちひろの歌の音程を下げると平井堅になるのだろう?竹内まりやと山下達郎が夫婦だからだろうか。…いやいや、そんな説明はあまりに精神論的すぎる。そんな説明をしたら、絶対バカにされるに決まってる。それになにより、鬼束ちひろと平井堅は夫婦ではない。きっと、何か他の確かな理由がきっとどこかに隠れているハズである。
 

 そこで、「竹内まりや、山下達郎、鬼束ちひろ、山下達郎」の歌を周波数を時系列的に眺めるスペクトログラムで比較・分析してみることにした。といっても、竹内まりやと山下達郎が「同じ言葉で歌っていて、なおかつ(本人の声以外の)バックミュージックが無いような音源」を手に入れるのが少し面倒だったので、今回は「声質」などを考察することはあきらめ、とりあえずはそれぞれの歌手の「歌い方」に注目してみることにした。
 

 まずは、竹内まりやの「元気を出して」と山下達郎の"So Much In Love"をスペクトログラムで眺めてみる。縦軸が周波数軸で、上に行くほど高い周波数の声である。当然、下に行くほど低い声である。そして、横軸は時間軸で、左の方が時間的に先で、右の方が時間的に後になっている。結局、このスペクトログラムの中にはさまざまな倍音が白い線となって描かれているのである。
 

「竹内まりや」と「山下達郎」の歌い方のスペクトログラムでの比較
竹内まりや 「元気を出して」
 山下達郎 "So Much In Love"

 まず、このスペクトログラムを眺めていると、竹内まりやも山下達郎も「ほんの少しだけ不規則なビブラート」がとても多いことがわかる。歌のかなりの部分にビブラートがかかっていて、竹内まりやの歌のやわらかさを支えている(少なくともワタシにはそう聞こえる)。そして、それは山下達郎とも共通している特徴である。

 また、それぞれのスペクトログラムの音の出し始め部をよく眺めてみるとちょうど「√」の形をした部分が数多く見られることに気づく。上に示した、竹内まりやの「元気を出して」のスペクトログラム中で青い矩形で囲った部分を見れば、そんな「√」形の部分があることが判るだろう。この「√(ルート)」形状は、「音の高さが連続的に変化している(一種のポルタメントのように)」ことを示しているわけだけれど、そんな√形状が竹内まりやと山下達郎の局の中に多いことが特に判りやすい部分を示したのが下のスペクトログラムだ。二人の歌の中にとてもよく似た√(root)マークがある(そして実はそれがとても数多くある)ことが判ると思う。
 

竹内まりやと山下達郎に共通する√ (root)
竹内まりや 「元気を出して」
 山下達郎 「君の瞳に恋してる」

 こうしてスペクトログラムを眺めてみると、竹内まりやと山下達郎の二人ともに、「ある音程の音を出すために、

  1. まず目的の音程よりも低いところから声を出し始め、
  2. しかも最初の一瞬は逆にほんのちょっとだけ下げて、
  3. と思ったら目的の音まで一直線に音程を上げて、
  4. そして、一定の音程をキープする
という歌い方」が共通していることが判ると思う。竹内まりやの歌にあふれるルーツ(√)は山下達郎の歌の中にあるルーツ(√)に繋がっていたのである。文字通り、竹内まりやのルーツは山下達郎のルーツだったのである。その歌の源は二人ともに同じものだったわけなのである。と、書いてる内に、とても非科学的になってしまったような気がしてきたので、ここで超強引に科学的に書いてしまえば、ここに
という方程式が実は成り立っていて、この「竹内まりや・山下達郎」方程式を解くことで、当然のごとく
竹内まりや=山下達郎
という答えが得られるわけなのである。つまり、竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎になると、この方程式から証明されるわけなのである。実に科学的な説明ではないだろうか……。
 
 
 

 …それはさておき、鬼束ちひろと平井堅の場合は一体どうなのだろうか。歌の中で声にかけられるビブラートは「竹内まりやと山下達郎」とどう違うのだろうか、そしてまた声(ある音程の声)の出し始めの様子はどのようになっているだろうか?というわけで、次に鬼束ちひろの「流星群」と平井堅の「大きな古時計」のスペクトログラムを眺めてみる。
 

「鬼束ちひろ」と「平井堅」の歌い方のスペクトログラムでの比較
鬼束ちひろ 「流星群」
平井堅 「大きな古時計」

 
 こうしてみると、もちろん鬼束ちひろや平井堅だって歌にビブラートをかけてはいる。しかし、先ほどの竹内まりやと山下達郎の場合と比べると、まるで人工的と言っても良いほどに規則正しいビブラートがかかっていることが判ると思う。また、ビブラートをかけていない部分では、実に一定な音程をキープしていることが判る。しかも、それぞれの音程で声を出し始める最初の部分では、その音程にいきなり「すっと入っている」のである。竹内まりやと山下達郎が「√」形状の声の出し方であるならば、鬼束ちひろと平井堅の場合は「電気回路の抵抗記号」のような声の出し方をするのである。そんな共通点がこの二人の間にはあったのである。鬼束ちひろの歌い方と平井堅の歌い方は実によく似ていたのである。だから、鬼束ちひろの歌の音程を下げると平井堅に聞こえたのかもしれない。誰でもカラオケに行って色んな歌手の歌を歌う機会があるだろうけれど、こんな風にスペクトログラム上のそれぞれの歌手の歌い方の特徴を意識しながら歌えば、もしかしたら面白いことだろう。誰もが平井堅や竹内まりやになりきれるかもしれない。
 

 ところで、最近のカラオケはとっても賢いリモコンがついていて、「**年に流れていた曲」というような検索ができる。すると、同年代の人とカラオケに行くとその年代に共通する「あの頃の曲」をかけまくって、歌いまくることになる。自分たちだけに判る懐メロ、だけどそこにいる人達にとっては「懐メロ」ではなくて今でも生き生きとしている曲、が次々とかけられることになる。中学時代、高校時代、ずっと昔のあの頃に流れていたヒットソング、そこにいる人に共通するルーツの曲のオンパレードになる。そんな時には、誰かが入れた歌全てがいつの間にか全員の合唱に変わっていたりする。

 同年代の人とカラオケは(特にそんなリモコンを使うときには)、まさに「他の人が歌う歌全てが自分の歌」、つまりは「君の歌は僕の歌」になる。、「元気を出して(オリジナル)」の最後の部分、竹内まりやの声を中央に、右から山下達郎の声が、左から薬師丸ひろ子の声が流れ溶け合っているのを聴きながら、そんな景色をを思い浮かべてみるのもきっと面白いんじゃないかと思う。

2004-05-03[n年前へ]

顔文字「ぼくんち」 

 「ぼくんち」を描く西原理恵子の絵はとても記号化されている。「笑う」顔は本当に「笑う顔」だ。だからこそ、その記号化された「笑い顔」が泣き顔に見えたりもする。

 そんな記号化された顔で描かれているならば、その顔を顔文字にしてしまうのも良いだろうか? いっそ、顔文字で「ぼくんち」を描いてみるのも良いだろうか。記号化された顔文字で「笑うしかない顔」を表してみるのも良いだろうか。

 というわけで、上手くできないけれど、適当に顔文字で貼り付けてみることにしよう。ついでに、ひらがなもカタカナにして。

「ボクンチ」 113,114話ソノ日ジイチャンハ古イ漁船に乗ッテヤッテキタ。調子ノ悪そうなディーゼルエンジンの音ガばひばひイッテイタ。「二太かっ。オマンが二太かっ」 (⌒○⌒)ジイチャンハ海の水と機械油と焼けた鉄のニオイがシタ。ソレハボクの町と似たニオイでボクハずいぶん安心シタ。 ꇊꋞꇻꋞꇋꆿꆡ(軟-軟 )…ゾウの頭ノカタチヲシタ入り江ヲ通ッテ、恐竜の入り江を過ギルト、イヨイヨボクノ町ガ見エナクナル。/\/\  /\〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  (゜(6 )「ジイチャン。ボク知ッテンデ」「コウユウ時ハ笑ウンヤ」    ( ∩ _ ∩ )



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