hirax.net::Keywords::「証明」のブログ



2001-11-22[n年前へ]

あなたと見たい、流星群 

同じ流星が見える距離

 「しし座流星群」が美しく盛んに空を彩った翌朝、Fast&FirstBBSをぼんやりと眺めていると、「アナタとみたい流星群」と題した

「僕たち距離は離れているけれど、同じ星(月)を見ているんだね」
なんて会話をする二人がいます。だけど、一体離れている距離が何km位までなら同じ流星を見ることができるのでしょうか?
という書き込みを見かけた。思わず良い話だなぁ、と見入ってしまった。

 今年の「しし座流星群」のようなきれいな流星群を、深夜同じ場所に佇んで二人で一緒に同じ流星を眺める人達も多いだろうが、離れた場所から、それでも同じ流星を眺めている二人もいることだろう。「そんな遠く離れた二人が、同じ流星を眺めることができるとしたら、それはどの程度の距離までなのだろう?」という「同じ流れ星を眺めることができる二人の距離」だなんて、とてもロマンティックでとても面白い話だなぁ、とその書き込みを眺めながら思った。そして、これはいつか考えた「地平線問題」と同じだなぁと考えて、だけど何故だか少し切ない話だなぁ、とも感じた。

 だから、とても興味を惹かれたのだけれど、その切なさのせいか、ただぼんやりとその話を眺めていた。すると、すぐに「今日の必ずトクする一言」のKOROKAN氏が

 これは計算が可能ですね。…流星の輻射点から地球に接線を引きます。そうすると、
地球の中心、輻射点、接線が地球に接する点の直角三角形になりますね。…(中略)…これに地球の半径をかけると1118kmと出ました。
 つまり半径1118kmの範囲が輻射点から見えることになりますから、(二人の距離としてはその二倍の2000kmで)おそらく東京−福岡、東京−札幌の遠距離恋愛なら見えるかも。
と簡潔な答えを書きこまれていた。暗算で片付けるところはやはりさすがスゴイなぁ、なんて感心していると、それとほとんど同じ頃、hirax.netの「ぐるぐる検索」にも、元の質問を書き込まれていた方から、
 あなたと私、離れていても同じ星を見ている。何kmの距離まで離れていても同じ流星を二人は見ることができるのでしょうか? (F&Fの掲示板に書きこんだ内容に同じです。)
という検索メッセージが送られてきた。そして、さらに
 とても好きな女性が私の住むミネソタから約1000マイルほど離れたオハイオに住んでいまして、彼女に獅子座流星群の話をしながらこの話を思いついたのです。ちょうど1000マイルだったらギリギリって感じかもしれない?遠く離れた場所でも、同じ流星を見ることができるかもしれない?
という話の発端を読みながら、私もちょっと落書きをしてみた。

 KOROKAN氏が簡潔に書かれていた答えをもう少し言い換えると、「私たちが流星を見ることのできる距離」は「流星の地平線」と同じだ。私たちが流星を見ることができるのであれば、逆に流星からも私たちが見通せることになるのだから、「地表に立つ私たちが流星を見通せる距離」=「流星が地表に立つ私たちを見通せる限界」、ということであって、それはすなわち「流星の地平線」そのものということになる。もちろん、本当はもっと色々なことを考えなければならないわけだけれど、とりあえずはこんな大雑把な計算でも十分だろう。
 

流星の地平線
●視点=地表に立つ私達
流星の発光点

 以前、地平線までの距離を計算した

でやったものと同じく(KOROKAN氏が書かれていたことと同じ)、灰色の直角三角形に着目してやると、流星の発光点の高度がわかれば、あとは地球の半径=約6400kmを用いれば、流星の地平線までの距離は簡単に計算することができる。

 流星の発光点の高度は理科年表をめくると、次のような表が載っていて、大体70km〜130kmの間であることが判る。その高度差を100kmほどの長さにわたって、光りながら駆け抜けて行くのである。
 

流星の平均の高さ及び速度(1933) 理科年表

 そして、「流星の発光点の高さY」を変えた場合の、流星から見渡せる距離(=流星の地平線)を計算してみたものが次のグラフになる。この「流星から見渡せる距離」がつまりは「流星を見ることができる最も長い距離」になる。
 

流星の平均の高さ及び速度(1933) 理科年表

 先の「流星の発光点の平均高度」として約70km〜130kmという値を使うと、先にKOROKAN氏が書き込まれていたように1000km前後という数字になるわけである。で、流星の発光点(輻射点近く)を挟んで遠く離れたところに住む二人であれば、その二人の距離が1000kmの二倍で2000kmの距離までは同じ流星が見える、ということになる。
 だけど、これは理想的な話で、現実の話ではない。

 実際にはそんなわけにはいかない。私達が住むほとんどの場所は、海原の真中や高い山の頂きじゃない。私達が流星を眺める場所はビルや鉄塔に囲まれたマンションのベランダだったり、あるいは木々や小高い山が周りを囲む小さな公園だったりする。少なくとも、地平線の果てまで見通せるような場所で眺める人なんかほとんどいないだろう。流星を眺めようとするほとんどの人達がいる場所は、上に広がる空しか見えなくて、地平線近くの空なんか見えない場所だとう思う。きっと、せいぜい天頂から60〜70°位の角度までしか空を見通せないに違いない。
 

 だとすると、さっき計算のときに着目した「灰色の直角三角形」は少し変えてやらなければならない。人の視点での地球への接線をひくのではなくて、もう少し天頂側へ角度を振ってやる。すると、先の「灰色の直角三角形」は下の図のように「青色の三角形」に変化することになる。
 

「地平線近くの空が見えない」場合の「流星の地平線」
●視点=地表に立つ私達
流星の発光点

 そして、先と同じようにこの三角形に注目しながら、「限られた空の下」に住む現実の私達が見ることのできる流星までの距離を計算してみると、下のグラフのようになる。下のグラフで「空を見渡せる角度」が天頂からの角度で90°、すなわち地平線まで完全に見渡せる場合である。つまり、先に計算した「理想的な場合」である。そして、それが1100km程度というのはもちろん先程と同じだ。
 

流星の発光点が高度100km時の、
空を見通せる天頂からの角度と流星の発光点までの距離(km)

 このグラフを眺めてみると、天頂からの角度に対しての「見ることができる流星までの距離」は「地平線近く」の場合とそうでない場合とで全然違うことが判るだろう。

 「地表面」と「その100km上空の面」というのはほとんど平行だから、天頂からの角度が70°位までは「流星の発光点までの距離」は緩やかに増加していくだけだ。天頂からの角度が70°(というとかなり水平にもう近いが)の時でさえ、「流星の発光点までの距離」はたった200km強である。さきほど見えると思われた1000kmなんて遥か彼方だ。

 しかし、天頂からの角度が80°を超え、ほとんど水平間際になってくると、「見ることができる流星までの距離」はぐんぐんと大きくなってゆく。80°で600kmくらい、85°で700kmくらい、そして90°でついに1000kmの彼方の流星まで見えることになる。
 

 ということは、現実の私達、海原の真中や高い山の頂きじゃなくて、ビルや鉄塔に囲まれたマンションのベランダや小さな公園から流星を眺める「限られた空」の下に住む私達は、せいぜい200kmくらいまで離れた場所で光る流星しか見えないことになってしまう。1000kmの彼方の流星なんかとてもじゃないが見えなくて、たった200kmが限界になってしまうのである。

 すると、遠く離れた二人が同じ流星を眺めようとするとき、その二人の距離の限界は高々200kmx 2=400km程度ということになってしまう。東京-大阪でも難しいかもしれない。空が本当に天頂近くに限られて、「空が無い」東京のような場所であれば、きっとその距離はもっとずっとずっと短くなるはずだ。新幹線に乗って会いに行くような二人では、同じ流星を眺めることはできないのかもしれない。

 だけど、とも思う。先のKOROKAN氏の書き込みは

 それに何より、「見ているモノが同じモノ」と信じる力が重要で、それが同じモノか、別のモノかを証明するすべも、否定するすべもありませんなあ。信じる者は救われるというし。
という風に締めくくられていた。私も本当にその通りだと思う。さっきの「せいぜい400kmが限界」なんて計算結果は「同じ流星を眺めようとする二人」には全然関係ないのだろう、とも思う。

 もしも、遠く離れて見渡せる空が全然重ならないような距離であっても、例えそれが昼と夜ほどの違いになる距離であっても、同じ景色を眺めている二人もいるだろう。また、逆にとても近くにいても同じ景色も流星も眺めることのできない二人もいるのだろうと思う。そんな違いを決めるのは、幾何学的な話じゃなくて、きっと別の何かだ。
 

 そしてまた、流星を眺める私たちの視点から、流星の視点に移動するといろいろなものが見えてくるとも私は思う。「限られた空」の下の私たちの視点がもう少し高く、高度100kmほどまで上がれば、周りではついに流星が輝やき燃える高さになる。ここまでくれば、見渡すことのできる地平線の果てまでは1000kmほどになる。その半径1000kmの円の地表が、その流星の視点から見える世界だ。

 そして、その流星の地平線の中にいる人達は、その流星を同時に眺めることができる人達であるが、一体その半径1000km程の領域の中にはどれだけの人達が住んでいることだろう?数千人?それとも、数千万?とてもたくさんの人達がいるに違いない。それは例え、半径200kmの円であってもやはり同じことだろう。その地平線の中にはとてもたくさんの人が住んでいる。

 そんな地平線の中の(あるいは外の)数え切れない沢山の人達の中に、同じ流星を眺めようとする二人がいる(それともいない)なんて、やっぱりとてもロマンティックで、やっぱりちょっと切ない話だなぁ、と思う。
 

2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2002-09-08[n年前へ]

君の歌は僕の歌 

竹内まりやの「平方根」

 半年ほど前、TBSのテレビ番組「USO」で放映されていた「竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎の歌に聞こえる」という話を観た。なんでも、その話は「ネット上をにぎわしている情報」ということだったのだけれども、ワタシには全然知らない話題だった。だから、その放映されていた「音程を下げた竹内まりやの歌」を聴いて、とてもびっくりした。確かに「山下達郎の歌」に聞こえるのである。そして、それにビックリすると同時にとても新鮮に面白く感じたのだった。

 山下達郎はワタシも好きだったりするし、しかも山下達郎は決して多作というわけではないので、「山下達郎が他人の曲をカバーをする新たな音源」をワタシが勝手に増やせるというのはとても魅力的である。そこで、ワタシは再生スピードを変えずに音程だけを変えることができるWinAmp + Pacemakerを使って、竹内まりやの「元気を出して」の音程を下げて、ワタシも山下達郎版「元気を出して」を作ってみることにした。それが下の二つのファイル、「元気を出して」の最後の部分の「オリジナル」と「音程を下げたもの」である。

これを聴くと、確かに山下達郎が竹内まりやの「元気を出して」を歌っているかのように聞こえるから不思議だ。単にそう耳に聞こえるだけではなくて、山下達郎が歌っている様子、そして山下達郎が竹内まりやに「君の歌は僕の歌」だよ、という気持ちを込めて歌っている様子すらワタシの頭の中に浮かぶのである。
 

 そこで、次に調子に乗って今度は鬼束ちひろの「流星群」の音程を下げてみた。今度は山下達郎が歌う「流星群」が手に入れよう、と思ったわけだ。ワタシの手持ちの音源全曲に対して山下達郎化計画を発動しようとしたのである。科学、いや単に"WinAmp+ Pacemaker"の力で山下達郎多作化計画を発動しようとしたわけだ。
  ところが、である。なんと「流星群」を歌っている歌手は今回は山下達郎には聞こえなかったのである。、そこには「流星群」をしみじみと歌いあげている平井堅がいたのだった。切々と「流星群」を歌い上げる平井堅の実に濃い顔がワタシの頭の中に確かに浮かんでしまうのだった。

何故、竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎になって、鬼束ちひろの歌の音程を下げると平井堅になるのだろう?竹内まりやと山下達郎が夫婦だからだろうか。…いやいや、そんな説明はあまりに精神論的すぎる。そんな説明をしたら、絶対バカにされるに決まってる。それになにより、鬼束ちひろと平井堅は夫婦ではない。きっと、何か他の確かな理由がきっとどこかに隠れているハズである。
 

 そこで、「竹内まりや、山下達郎、鬼束ちひろ、山下達郎」の歌を周波数を時系列的に眺めるスペクトログラムで比較・分析してみることにした。といっても、竹内まりやと山下達郎が「同じ言葉で歌っていて、なおかつ(本人の声以外の)バックミュージックが無いような音源」を手に入れるのが少し面倒だったので、今回は「声質」などを考察することはあきらめ、とりあえずはそれぞれの歌手の「歌い方」に注目してみることにした。
 

 まずは、竹内まりやの「元気を出して」と山下達郎の"So Much In Love"をスペクトログラムで眺めてみる。縦軸が周波数軸で、上に行くほど高い周波数の声である。当然、下に行くほど低い声である。そして、横軸は時間軸で、左の方が時間的に先で、右の方が時間的に後になっている。結局、このスペクトログラムの中にはさまざまな倍音が白い線となって描かれているのである。
 

「竹内まりや」と「山下達郎」の歌い方のスペクトログラムでの比較
竹内まりや 「元気を出して」
 山下達郎 "So Much In Love"

 まず、このスペクトログラムを眺めていると、竹内まりやも山下達郎も「ほんの少しだけ不規則なビブラート」がとても多いことがわかる。歌のかなりの部分にビブラートがかかっていて、竹内まりやの歌のやわらかさを支えている(少なくともワタシにはそう聞こえる)。そして、それは山下達郎とも共通している特徴である。

 また、それぞれのスペクトログラムの音の出し始め部をよく眺めてみるとちょうど「√」の形をした部分が数多く見られることに気づく。上に示した、竹内まりやの「元気を出して」のスペクトログラム中で青い矩形で囲った部分を見れば、そんな「√」形の部分があることが判るだろう。この「√(ルート)」形状は、「音の高さが連続的に変化している(一種のポルタメントのように)」ことを示しているわけだけれど、そんな√形状が竹内まりやと山下達郎の局の中に多いことが特に判りやすい部分を示したのが下のスペクトログラムだ。二人の歌の中にとてもよく似た√(root)マークがある(そして実はそれがとても数多くある)ことが判ると思う。
 

竹内まりやと山下達郎に共通する√ (root)
竹内まりや 「元気を出して」
 山下達郎 「君の瞳に恋してる」

 こうしてスペクトログラムを眺めてみると、竹内まりやと山下達郎の二人ともに、「ある音程の音を出すために、

  1. まず目的の音程よりも低いところから声を出し始め、
  2. しかも最初の一瞬は逆にほんのちょっとだけ下げて、
  3. と思ったら目的の音まで一直線に音程を上げて、
  4. そして、一定の音程をキープする
という歌い方」が共通していることが判ると思う。竹内まりやの歌にあふれるルーツ(√)は山下達郎の歌の中にあるルーツ(√)に繋がっていたのである。文字通り、竹内まりやのルーツは山下達郎のルーツだったのである。その歌の源は二人ともに同じものだったわけなのである。と、書いてる内に、とても非科学的になってしまったような気がしてきたので、ここで超強引に科学的に書いてしまえば、ここに
という方程式が実は成り立っていて、この「竹内まりや・山下達郎」方程式を解くことで、当然のごとく
竹内まりや=山下達郎
という答えが得られるわけなのである。つまり、竹内まりやの歌の音程を下げると山下達郎になると、この方程式から証明されるわけなのである。実に科学的な説明ではないだろうか……。
 
 
 

 …それはさておき、鬼束ちひろと平井堅の場合は一体どうなのだろうか。歌の中で声にかけられるビブラートは「竹内まりやと山下達郎」とどう違うのだろうか、そしてまた声(ある音程の声)の出し始めの様子はどのようになっているだろうか?というわけで、次に鬼束ちひろの「流星群」と平井堅の「大きな古時計」のスペクトログラムを眺めてみる。
 

「鬼束ちひろ」と「平井堅」の歌い方のスペクトログラムでの比較
鬼束ちひろ 「流星群」
平井堅 「大きな古時計」

 
 こうしてみると、もちろん鬼束ちひろや平井堅だって歌にビブラートをかけてはいる。しかし、先ほどの竹内まりやと山下達郎の場合と比べると、まるで人工的と言っても良いほどに規則正しいビブラートがかかっていることが判ると思う。また、ビブラートをかけていない部分では、実に一定な音程をキープしていることが判る。しかも、それぞれの音程で声を出し始める最初の部分では、その音程にいきなり「すっと入っている」のである。竹内まりやと山下達郎が「√」形状の声の出し方であるならば、鬼束ちひろと平井堅の場合は「電気回路の抵抗記号」のような声の出し方をするのである。そんな共通点がこの二人の間にはあったのである。鬼束ちひろの歌い方と平井堅の歌い方は実によく似ていたのである。だから、鬼束ちひろの歌の音程を下げると平井堅に聞こえたのかもしれない。誰でもカラオケに行って色んな歌手の歌を歌う機会があるだろうけれど、こんな風にスペクトログラム上のそれぞれの歌手の歌い方の特徴を意識しながら歌えば、もしかしたら面白いことだろう。誰もが平井堅や竹内まりやになりきれるかもしれない。
 

 ところで、最近のカラオケはとっても賢いリモコンがついていて、「**年に流れていた曲」というような検索ができる。すると、同年代の人とカラオケに行くとその年代に共通する「あの頃の曲」をかけまくって、歌いまくることになる。自分たちだけに判る懐メロ、だけどそこにいる人達にとっては「懐メロ」ではなくて今でも生き生きとしている曲、が次々とかけられることになる。中学時代、高校時代、ずっと昔のあの頃に流れていたヒットソング、そこにいる人に共通するルーツの曲のオンパレードになる。そんな時には、誰かが入れた歌全てがいつの間にか全員の合唱に変わっていたりする。

 同年代の人とカラオケは(特にそんなリモコンを使うときには)、まさに「他の人が歌う歌全てが自分の歌」、つまりは「君の歌は僕の歌」になる。、「元気を出して(オリジナル)」の最後の部分、竹内まりやの声を中央に、右から山下達郎の声が、左から薬師丸ひろ子の声が流れ溶け合っているのを聴きながら、そんな景色をを思い浮かべてみるのもきっと面白いんじゃないかと思う。

2003-03-05[n年前へ]

とりあえず。 

 ジョナサンケイナーの「今週、あるできごとが起こります。その結果、あなたが“何かを支配できない”ことが明らかになるでしょう。でも、ご心配なく。同じできごとが、“それは大した損害ではない”ことを証明してくれるでしょうから」というアドバイスを真摯に受け止めることにしましょうか。

 それはさておき、今週は胃カメラ。そのくせ、再来週もバリウム…。しんどいなぁ…。胃カメラはもちろん全身麻酔コースで…。

2003-06-15[n年前へ]

ロシア人研究者が証明 

 「「ポアンカレ予想」をロシア人研究者が証明したと発表、14日までに欧米の複数の数学者グループによる検証でも「正解」とみられる」という記事がZAKZAKで読めることが少し新鮮。



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