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2003-07-21[n年前へ]

美人の微分方程式 

あなたの写真を美人にしよう

 ここで作成したソフトのオンラインバージョンが作成されています。


あなたの写真を美人にしよう

 先日、ブサイク・フィルタという面白いソフトウェアを知った。それが一体どういうものかというと、なんと画像の微分成分を原画像に足すことで「どんな美人もブサイクにしてしまう」という画像処理ソフトなのである。何が美しく何がブサイクか、というのは人間の感性の問題でもあるし、そんな美醜を機械が処理するのは難しそうに思えるだろう。しかし、実際にブサイク・フィルタのアプリケーションで処理を行ってみると、下に示した例で判るように、確かに「美人がほどよくブサイクになってしまっている」ことが判る

原画像
原画像
「ブサイク」処理後
ブサイク画像

 このフィルタは一体どうやって美女をブサイク化しているのだろう?と不思議に思いながら、ブサイク・フィルタの説明書を読んでみると、そこには
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という式で処理をしている、と書いてある。通常、スケッチ風にしようとして微分することはあるが、それでブサイクな感じも得られるというのはちょっと新鮮だなぁと思っていると、前後して
 画像の微分成分を原画像に足すことで「どんな美人もブサイクになる」のなら、画像の微分成分を原画像から引くと「どんなブサイクも美人になる」のでしょうか
なんていう質問メールを頂いた。なるほど、確かに
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という方程式が成り立っているのであれば、この式を少し変形した
美人画像 = ブサイク画像 - 微分成分
という方程式だって、成り立っているかもしれない。人を勝手に「ブサイク」にしてしまうフィルタも面白いが、人を勝手に「美人」にしてしまうフィルタだって同じように面白いかもしれない。しかも、面白いだけではなくて実用性もあるかもしれないということで、今回はこの「美人画像の微分方程式」について考えてみることにした。

 まずは、
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という式により行われている処理がどのようなものであるかを考えてみよう。これは「微分成分」が、明るいところと暗いところの境界部で大きくなるものであって、それを原画像の輝度値に足している(明るくする)と言うことから、結局、行われていることは「明るいところと暗いところの境界線を明るくする」という処理であることがわかる。

 そして、人間の顔の中では
「明るいところと暗いところの境界部」 =「目や口といった暗く色のついている部分」の境界部
であることから、この式は結局のところ「目や口の境界部を明るくする」という処理を行っていることになる。そして「目や口の境界部を明るくする」と、つまるところ「目や口が小さく見える」ということになる。「大きな瞳を持つ」ということは美人であるための大きな条件の一つだろうから、目が小さくなるということは、美人度が低くなり「ブサイク」になるというのはとても自然なわけである。これが
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という「ブサイク」微分方程式の意味であるわけだ。

 そしてまた、逆に
ブサイク画像 - 微分成分
という処理をすると、目や口を大きくはっきり描くことになり、結果としてはきっと美人になるに違いないのである。だから、先のメールで指摘されていたように
美人画像 = ブサイク画像 - 微分成分
という「美人」微分方程式が成り立つに違いない、ということになる。

 とはいえ、これだけでは単なる推論に過ぎないわけで、実際に試してみなければならないだろう。そこで、この
  1. 「ブサイク」微分方程式
  2. 「美人」微分方程式
の処理を行うアプリケーションとPhotoshopプラグインを試しに作ってみて、これらの微分方程式が成り立つかどうかの実験をしてみることにした。

 まずは、「ブサイク」微分方程式をもう一度確認してみよう。これはもちろん先のブサイク・フィルタと同じで確かに「目や口が小さくなって」原画像よりもブサイクになっていることがわかる。

原画像
原画像
「ブサイク」処理画像
ブサイク画像
 そして、次に「美人」微分方程式の処理を行ってみた。原画像が元々かなりの美人なので判りにくいとは思うが、「美人処理」を行ったものは確かに美人化されていることがわかる。どうやら、「美人」微分方程式は正しく成立しているようである。

原画像
原画像
「美人」処理画像
ブサイク画像

 そして、もっとわかりやすいように、先に作った「ブサイク」画像に対して「美人処理」をしてみたものが次のようになる。もともとの「ブサイク」原画像がずいぶんと美人化していることを確認できることと思う。

原画像(「ブサイク」)
ブサイク画像
「美人」処理画像
ブサイク画像

 ところで、今回考えてみた「美人」微分方程式は目の縁取りを行うことで目を大きく美人に見せることになるわけであるが、それは結局のところ女性の化粧と同じである。「目の回りにアイラインやらアイシャドーやらを入れて、目を大きく美人に見せる」ということを機械的にしているだけのことである。「ブサイク」微分方程式は女性の化粧を落とした顔を見せているのと同じ事であるし、「美人」微分方程式は女性に化粧をした顔を見せているのと同じことである。女性は化粧次第で変身するとよく言うが、今回の処理をいろんな人達にかけて、その処理前後の画像をじっくりと眺めることで、その人達の化粧前後の顔を想像してみるのも面白いかもしれない。あるいは、あなたの写真を(もっと)美人にしてみるのも面白いかもしれない。

2003-07-29[n年前へ]

「援助交際がいけないとされる理由/根拠を論理的に説明して下さい」 

 今日の興味深いはてなの質問。質問者のコメントがとても的確に響き、興味深く読んだ。
 そして、そこからリンクされている「善なる嘘と邪悪な真理」を読む。

 「善なる嘘」の対極に位置するのは、本当のことでありながら、それを認めると世の中を悪くなるような有り様、すなわち「邪悪なる真理」である。「人を殺してはいけない」。当たり前のことであるはずなのに、その理由は今まで「善なる嘘」によってしか語られてこなかった。なぜなら、「邪悪なる真理」の手を借りたとたん、「人を殺すことは悪いこととは限らない」という真理がくっきりと浮かび上がってくるからである。
 という文を読みながら、自らを省みずに「善なる嘘」を垂れ流すことはしたくないな、とふと思ったのである。自らを省みずに底の浅い「善なる嘘」を書きつづるのはどんなもんだろう?と思ったのである。

2003-08-27[n年前へ]

文章中に読点(、)を多くうつ人は… 

私見ですが、文章中に読点(、)を多くうつ人は精神的におかしな人が多いと思います。そこで文体の癖を心理学的に解説しているサイトをご存じの方があればご教授願います。
という「はてな?」の質問。この質問者がどうしてそう考えるに至ったかがとても興味のあるところである。そして、質問者が自分自身をどう考えているかが知りたいところだ。

 ところで、WEBページで眺める文章を書く場合だと、どうしても読点や括弧を多く付けたくなる。低い解像度で不自然な輝度で眺める文字はどうしても読みづらいがために、私たちの脳はその文字を読むことに多くの労力を割かれることになる。そのため、そんなディスプレイ上の文字を読む私たちの理解力は低下せざるを得ない。だから、その低下分を補うために、句点や括弧をつけて文章の構造を単純化したくなるのである。
 

2003-09-01[n年前へ]

紙 v.s. ディスプレイの読みやすさ 

 「PCで文章を読むとき、同じものを紙で読むよりも読みづらく感じます。これは何故なのか、詳しく説明している所はありますか?」というはてなの質問遠く懐かしく感じて少し書いてみたので、ここにも少し書いておく。

 富士ゼロックスの小清水氏らが「人間にとって読み易く、扱い易いドキュメント媒体の形態的特性に関する評価例」ということで報告した実験に次のようなものがあります。 同じ簡単な試験問題を「1.紙に印刷したもの」「2.CRT,液晶ディスプレイで表示したもの」で評価者達に解かせると、2の場合は解く時間は短かったが正答率は低い、一方1.の場合は解く時間は長かったが正答率が高い。つまり、人間は紙はじっくり読んで正しく認識するが、PCで使われるディスプレイに対しては読み飛ばす傾向がありさらに読み間違いも多い、ということです。

 もちろん、報告用の実験ということもあるでしょうから、かなり「都合の良い」解釈が入っているかもしれないとは推察されます。とはいえ、それにしても面白い話です。これは、ペーパーレス化を進めようとする動きが盛んになる中で、少し落ち着いて考えてみるべき話だと思います。

 「PCで使われるディスプレイに対しては読み飛ばす傾向がありさらに読み間違いも多い」可能性があるのです。

2003-09-04[n年前へ]

「俺」「僕」「わたし」「私」と「あたし」「わし」 

はてなダイアリーの一人称で眺める「WEB日記の立ち位置」


 WEB日記の起源は土佐日記に遡る。そう書く理由は、土佐日記がWEB日記と同じく他人に読まれることを前提とした「日記」であったというだけではない。WEB日記の流行がさまざまなシステム、例えば「さるさる日記」「エンピツ」といった比較的簡単で使いやすいシステム・道具に支えられているように、土佐日記もまた「ひらがな」という新しく使いやすいシステム・道具の支えがあってこそ出現した、というのが何より一番の理由である。

 そして、「土佐日記」に続く「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」といった、「土佐日記」後の日記文学を支えていったのが全て女性達だったのと同じく、それから千年後のWEB日記文学の黎明期を支えたのも「ちゃろん日記(仮)」「バブルの逆襲」「菜摘ひかるの性的冒険」といったよな女性達だったということもWEB日記の起源を土佐日記に遡らせたくなる理由の一つなのである。

 また、土佐日記が書かれたのが1000年以上も前であるにも関わらず、そういった「日記」と「女性」という不思議な繋がりを意識したのかしないのか、書き手である紀貫之が女性を装いながら日記を書くという「ネカマ」テクニックを先取りしていた、というのも実に先見の明がある。まるで、紀貫之が千年後のネットワーク社会を見通していたかのようなのである。というわけで、WEB日記の起源を土佐日記に求めてみるのもそう不自然な話というわけではないように思われる。


 千年前の土佐日記から続いてきた「他人に読まれることを前提とした日記」も、最近では他人のWEB日記にコメントを書きこむことができたり、他人のWEB日記に対し自分のWEB日記からコメントが自動的にされるようになってきたりと、少しづつ変わりつつあるようだ。他人に単に日記を読ませることができるというだけでなく、他人に日記の一部を書かせてみたり、他人の日記へ口をはさんだりするということが普通にできるとなれば、それは千年前に比べて大きく「道具」が発展すると言っても良いのかもしれない。だとすれば、道具の発展がそれを使うものの意識を変えていくことがしばしばあるように、WEB日記を支えるシステムが大きく変わっていくのであれば、WEB日記を書いている人達の意識がどのように変化していくかが非常に気になるところだ。他人に対して日記を公開するという意識、あるいは他人の日記の「公共性」への意識がどう変わっていくのかはとても気になるところである。

 そこで、WEB日記の書き手の意識を探るために、WEB日記システムの一つである「はてなダイアリー」のはてなダイアリー利用者に100の質問に答えた人達の中から50人を抽出し、次の2点、

  1. 家族・友人(他人)にはてなダイアリのURLを教えているか
  2. 他人の日記にコメントをつけたことがあるか
またそれに加えて
  • 日記の中で一人称には何を使っているか
  • 男性か女性か
にも着目してアンケート結果を眺めてみることにした。それにより、WEB日記の書き手の「日記を他人に公開する」という意識、および、「他人の日記に口を挟む」ということの意識を眺めてみたいと思う。そして、その人達の一人称を調べることで、その人達が
  • どのように自分を語っているか
  • どのように名乗っているか
を眺めてみたい。千年以上前に一人称の性別を偽りながら始まった「公開日記」の一人称が現在どうなっているのかを調べてみたいと思うのである。


 まずは、「性別と一人称の相関関係」を下に示してみる。このグラフは、男・女に対する各一人称の相関関係を示しており、縦軸の上方向が「男と相関が高い=男性がよく使っている」一人称であり、下方向が「女と相関が高い=女性がよく使っている」一人称であることを示している。

性別と一人称の相関関係
一人称
 このグラフを見ると、男性が使う順に「俺、僕、わたし、私、一人称無し、あたし・わし」となっているとか、「私」は「わたし」より女っぽいということが判る。もっとも、例えば菅原文太がよく使いそうな「ワシ」が、何故かとても「女っぽい」という結果になってしまっているが、だからといってそれは「実は菅原文太が女っぽかったのだ」なんていうことでは別になくて、単にサンプルとして抽出した50人のうち「ワシ」を使っていたのはただ一人だけで、しかもそれが男性ではなくて女性だったというだけの理由なのである。

 そして、次に示すグラフは「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」ということに対する相関値(≒家族への距離)を縦軸にとり、「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」ということに対する相関値(≒他人への距離)を横軸にとり、各一人称を配置させてみたものである。縦軸の「家族(友人)にはてなダイアリのURLを教えているか」という設問に関しては答えている人達が主に「家族へ日記を教えているか」という意識で答えているようだったので、ここでは縦軸は「家族への(日記の)距離」というように捉えてみた。そして、横軸の「他人の日記にコメントをつけたことがあるか」という設問は「他人の日記への距離」というように捉えてみた。

家族からの「距離」と他人への「距離」
グラフ

 このグラフを見ると、不思議なことに「家族に近い日記」の書き手は「他人の日記」に遠く、「家族から遠い日記」の書き手は「他人の日記」に近いということが判る。つまり、「家族への近さ」と「他人への近さ」は反比例するという不思議な関係がある。そして、女性は家庭に近く他人にはちょっと距離をおいているが、男性は家庭から遠く他人への距離が近い、なんていう姿も見えてくる。ありがちな男女像ではあるのだけれど、そんな像が見えてくるのである。

 とはいえ、男性であっても「俺」を一人称に使うような書き手はあまり他人の日記へ書き込みはしないとか、男性でも「僕」を使うような書き手は家族を近く意識しつつも同時に他人へも近い、なんていうことも判る。また、「私」と「わたし」は家族への距離は同じくらいであるにも関わらず、他人への距離は正反対の関係にあって「私」を使う人はあまり他人の日記へは書き込まないが、「わたし」を使う人はある程度他人の日記に書き込みをしているなんていうことも判るのである。

 人それぞれ自分を語る一人称が異なるように、それぞれの日記ももちろんそれぞれ立ち位置が異なっている。その立ち位置の違いの原因は書いている人達自体の違いということは当然あるに違いない。しかし、同時にその人達の日記を支えている道具の違いということもある程度は影響を与えているに違いないと想像する。そこで、今回ははてなダイアリの書き手50人を眺めてみたが、次回以降では違う日記システムの書き手達も眺めてみたいと思う。そして、道具が少しづつ変わっていく中で、その道具を使って書かれている日記が、あるいは何処かで生まれるだろう新たな日記文学が、どのように変わっていくのかを考えてみたいと思う。



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