2004-01-19[n年前へ]
■ある夜灯台が
そういえば、去年の年末近いある夜に「日本海沿いの灯台が土台だけを残して消失してしまった」という不思議な事件があった。もちろん、そんな話を聞くとブラッドベリあるいは萩尾望都の霧笛を思い出すわけです。海の底から、「千マイルもの向こうの二十マイルも深い海底から百万年もの時を経てゆっくり目覚めたもの」が灯台の霧笛に呼ばれてやってきて、そして、霧笛の途絶えた灯台を壊してしまった、という霧笛を思い出すわけです。
霧笛と言えば、このリンク先の批評はなかなかに読み応えがあります。もし、ブラッドベリや萩尾望都の霧笛、あるいは萩尾望都や野田秀樹の半神を好きであれば、読んでみることをお勧めします。
これまでぼくはずっと、たったひとつの音を発し続ける装置について考え続けていた。あらゆる海、あらゆる時間、あらゆる霧の中を押し分けて、剥き出しのまま届きぼくのなかに響く声、…引き剥がすことのできない声を発する装置。「霧笛」だ。 萩尾望都・野田秀樹の戯曲「半神」には、「霧笛」のある一部分が引用されていて、交錯するこのふたつのテクストは、まるで「霧笛」のなかの灯台とそれに相対する怪物の声のように、それぞれぼくの霧の中で深い孤独のうちに呼応しあっている。「半神」は孤独、決定的なひとつの不在を生きること、について描き、「霧笛」はその孤独な他者へ呼びかける声の乗り越えられなさを描いていると言っていいかもしれない。ともかくどちらも、深い愛についての話だ。こんな「何かに対する見方の一つ」を与えてくれて、しかもその見方から見える世界が「とても深い世界」になっているというのは、とても素晴らしい批評だと思う。元の何かに対する価値を高めてくれる批評というものは、実に素晴らしい批評だと思う。
演劇「半神」の中には「1/2+1/2=2/4」という螺旋方程式が出てくる。「1/2+1/2=2/2」ではない。「1/2+1/2=2/4」であって、その答えは割り切らなければならないがために、その結果は「1/2+1/2=2/4=1/2」となる。スフィンクスの問いを踏まえて言えば、その螺旋方程式の答えは「一人+一人=一人」になる。シャム双生児を別れさせたならば、その結果は一人だけしか生き残ることはできないということ。あるいは、DNAの二重螺旋の二本の鎖がいくら絡み合っても、結局のところ決して交わらないということ。だけど、やはりそれでも左辺のように足し算をしたくなるということ。そういった色んなことを示しているようにも見える。もっと、シンプルに言ってしまえば、いやそれが「1/2+1/2=2/4」という数式になるのか。
そんなわけで、もう少し引用しておこう。
眠りを呼びさます、その場所から引き剥がす「声」なじんだ場所、体の張り付いてしまった所から引き剥がされることは、快楽でありながら 時として耐え難い痛みを伴うものだ。まして「百万年も待っていた」なら、なおさらのことだ。しかし目覚めないわけにはいかない。「声」が届いた、あるいは届けられてしまったのだから。 彼は深く沈んだ海の重み、強い耐え難さの中を耐えながら上昇してくる。「一時間ごとに数フィートずつ昇っては、ゆっくりとその体を慣らしたあげく、やっと水面に近づいても生きていられるようになる。だから、水面へ出るまでに三ヶ月はたっぷりかかり、さらに、それから灯台まで冷たい海を泳いで何日もかかる」 そして破壊のあとに、怪物は鳴く。灯台はなくなってしまっていた。百万年の向こうから怪物に呼びかけていたものはなくなってしまったのだ。言うまでもなく、ここでは怪物における不在、かつて「存在したが(今では)なくなってしまったもの」という存在が、彼の声帯に繋がれているのだ。
2004-03-06[n年前へ]
■「役に立たないように見えること」
void GraphicWizardsLair( void ); //経由で「組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき」を読む。それぞれの節としてはじめに注目する点は私の感覚と近いところもあるが、それぞれの節での流れは私の感覚とは少しづつあるいは時には大きく違和感やズレを感じる。そして、その最終的な流れには実に大きな感覚のズレを感じる。一番のズレというか私の希望は、「組織から独立した個人に由来する部分に個人の価値を見いだしたい」というところだろうか。 とはいえ、とても面白く読む。
自分の感覚と最も大きくズレている部分は下記の一節なんだろうと思う。
仕事と遊びを区別して割り切ることができるのは、サラリーマンの特権だ。個人として自分を売り込む専門家の場合は、「ホームページ作りに時間を使うより論文を書くほうが業績になる・・・」といった雑念も沸くかもしれない。逆説的だが、「自分はサラリーマンだ」と割り切れる人ほど、楽しく専門知識のページを作れると思う。こんなサラリーマンという言葉を(書き手以外に)一般化しないで欲しいなぁ、とは思う。おそらく、そんな一般化が少し引っかかったのから反応してしまったのだろう。
「世の中の役に立つことをしている」というフレーズにはとても惹かれつつ、その「世の中の役に立つこと」が組織と関連するのであれば、その「世の中の役に立つこと」をそうそう行うわけにはいかないだろうな、と思う。そんな思いもあるのがために、直接「役に立つことはしない」というのをhirax.netのポリシーにしたということもある。とはいえ、hirax.netから出たグッズが画像学会から販売されてしまったりすると、その区別は実に曖昧なものになりかねないが。
とりあえず、(中略)私自身は「一見すると役に立たないように見える」ことを勝手に「世の中のために善い活動をしている(していると思っている)」と思いこみながら書いていくことにしよう。とはいえ、それがオッパイ星人との戦いに発展してしまうと、自分でもちょっと「何だかなー」とは思うが。どうにも、相手がオッパイ星人では勝ち目もないし気がするし。
個人的にはこの方の意見を少し拝聴してみたいところ。
2004-04-25[n年前へ]
■「辞書単語登録プログラミング」 面白一発芸 編
「文字」も「画像」も自由自在だぁーです。標準添付の画像入出力の例に加えて、GraphVizやGnuPlotを使った例を書いてみました。GraphVizを使った例などでは、こんな風に
コナンは蘭を好き
蘭は新一を好き
コナンは新一に戻れない
なんて文章をクリップボードにコピーした上で、「関係」なんて入力し・変換すると、アラアラ不思議「文章の内容、入力した曖昧な言葉」が変換されて、「その言葉が表すものが形を伴って目に見える画像として姿を現します」 ハイ、これが「辞書単語登録プログラミング」です。
さてさて、あまり「辞書単語登録プログラミング」とは関係ありませんが、こんな風にGraphVizを何処からでも簡単に使えるようになると、人間関係や特に三角・四角…関係でお悩みの方にはいじってみる価値アリ?だと思います。哀しくなるくらいに、きっと適切な図が変換・表示されるんじゃないか、と。なんだか、とても不毛ですけどね。
もっと、本題とは離れてしまいますが、何にせよ「スキ」とか「キライ」というものの収支はどうにも合わないのが普通だと思います。そういうものを「適切な図」で表現してしまうと、何だかとてもやるせなくなったりもするかもしれません。まだ曖昧な文章の方が良かったなんていう風にも思ったりもするかもしれませんねぇ、時には。
2004-05-18[n年前へ]
■「物差し」では計れない
先日、発表資料を作りながら業田良家の「自虐の詩」の一節を思い浮かべていた。頭の中で、その中の言葉を色んな言葉で入れ替えながら、その一節を思い浮かべてみた。善や悪、美しさや醜さ、賢さや愚かさ、あるいは強と弱、いろんな「物差し」をその一節に差し込んでみた。
色んなものを眺めると、色んな「物差し」をあてたくなる。自然と色んな基準で判断したり、色んな値踏みや値付けをしてみたくなる。けれども、ふとこの一節も思い出す。この一節の中の言葉を、「幸」や「不幸」や「人生」といった色んな言葉で入れ替えて、色んなことを考える。
そして、入れ替えたそれらの言葉を元の言葉に戻した後に、もう一度だけ元の文章を読んでみる。
私たちは泣き叫んだり立ちすくんだり…でもそれが幸や不幸ではかれるものでしょうかこの世には幸も不幸もないのかもしれません人生には意味があるだけですこの人生を二度と幸や不幸ではかりません「…幸や不幸はもういい」「どちらにも等しく価値がある」「人生には明らかに意味がある」 業田良家 「自虐の詩」
2004-06-11[n年前へ]
■「1人称で語れ。」
私は著者の主張のいくつかに反対である。戦後の平和主義はあやしげなものだったと考えている。死刑を完全に廃止せよとはいえない。最近日本は狂いだしたというセリフは聞き飽きた。ついでに、W杯の前からサッカーが好きだ。 しかし、一つ全面的に賛成するメッセージがある。1人称で語れ、語れなかったことを他人のせいにするな。自分への怒りと憎しみを他人への憎悪と不信にすりかえるな。それさえしなければ、世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。 かつてすりかえた経験のある1人として、私も同じことをいいたい。
価値があると思うものも価値がないと思うものも、愛すべきものも憎むべきものも1人称で語るのが良いかもしれない。当然のごとく、それに対する応答はその一人称に帰ってくるわけだが。 from 日日ノ日キ