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2003-06-17[n年前へ]

アルキメデスのパンチラの式 

「スカート円錐」の明るさを探れ

「スカート円錐」の明るさを探れ

 以前、「ミニスカートの幾何学」として、女子高生の間などで流行っていたミニスカートの丈の短さの限界について考えてみたことがある。階段を上ろうとしているミニスカートを履いた女性(別に男性でも構わないが…)の下着が見えてしまうかあるいは見えないのかを、女性達が履くミニスカートの丈の長さから考察をしてみたのであった。

 その「ミニスカートの幾何学」の考察をした結果、ミニスカートの丈がちょうど32cmの時に、ミニスカートで下着が隠されはじめる境界線がちょうど階段と平行になる、ということが判ったのである。そして「下着が隠されはじめる境界線がちょうど階段と平行になる」結果、ミニスカートの丈が32cmより短いと下着が階段下を上る人達から見えてしまうようになり、逆にミニスカートが32cm以上の丈であればスカートの中の下着はなんと幸か不幸か見えることはないのだ、ということが判ったのである。ミニスカートをはいた女子高生が急な駅の階段なんかを上るときでも、ミニスカートの丈が32cm以上であれば、パンチラの恐怖に怯える必要はないということが判ったのであった。


 ところで、ミニスカートの中が見えてしまいそうになる場所というのは、必ずしも急な階段だけではないらしい。最近の東京の有名スポットなどでは、「吹き抜け構造の建物内で階下から階上を見上げられる場所」や「建物内外の渡り廊下を見上げられる場所」なんかがたくさんあったりするというのである。そして、そんな場所では、真上にいる「スカートを履いた女性」を急角度で仰ぎ見ることができて、スカートの中の下着がチラリと見えてしまうことがあるというのである。

 しかし、である。角度的にスカートの中の下着が見えるからといって、果たして本当に下着が見えるものなのだろうか?角度的には見えるはずでも、実際には人間の目には見えないことだってあるのではないだろうか。なぜなら、スカートが「私たちの視線から下着が見えるのを遮っている」のと同じように、スカートは「照明の光が下着にあたるのをも遮っている」のである。スカートの中というのはスカートに光が遮られて(たぶん)かなり暗いハズなのである。いや、実際に覗いてみた経験があるわけでは決してないので自信を持って「ハズ」と断言することはできないのだけれど、スカートの中が明るいわけはないと思うのである。もし、スカートの中が明るくなければ、仮にその中身を覗くことはできても結局暗くて何も見えないわけで、「スカートの中が(見えるくらいに)十分に明るいかどうか」が肝心だと思うのである。そこで、今回は「下着が角度的に見通せる条件」ではなくて、「スカートの中の下着が十分明るく見える条件」を考えてみたい。


 まずは、スカートをはいた女性を下の図のように簡単に示してみよう。スカートを下向きに開いた円錐として考えてみる。もちろん、スカートの中の下着はこの円錐の頂点に位置するわけだ。そして、スカートが広がる角度をΘとでもしてみることにしよう。その時、円錐の頂点にはどれだけの光が当たるものだろうか?

Diagram

 もちろん、円錐状のスカートが上からの光は遮っているわけだから、スカートの中の下着を照らす光というのは、下の床からの反射光だけである。つまりは、上の図で、「色を付けた部分の床」からの反射光のみが下着にまでたどり着き、それ以外の床からの反射光はスカートに遮られて、スカートの中を照らすことはない。ということは、「スカートの中はどれくらい明るいか?」という疑問を考えることは、それは「色を付けた部分の床からスカートの中の下着にまでたどり着く光がどれだけあるか?」ということを考えることと同じなのである。

 そしてまた、床上での光の反射に方向性が無く、光が完全に等方的に周囲に拡散するとするならば、円錐の中心(つまりはスカートの中の下着部分だ)にあたる光の量は、下の左図の色を付けた部分球の面積に比例する。つまり、「スカートの中の明るさ」は「スカートの広がり角」で決められる「部分球」の面積に比例するのである。


Diagram2

 つまり、角度Θで広がるスカートの中が「どれくらい明るいか?」という疑問は、「下図で色を付けた部分球の面積はどのくらいか?」という問題に変わるわけである。「半球全体の面積に対して、スカートの広がりで決められる部分球の面積はどのくらいの割合か?」ということの答えが、それすなわち「スカートの中の明るさ」を決めているのである。

 ところで、アルキメデスが発見したように、球(もしくはその一部)の面積はその球に外接する円筒の面積に等しい。つまり、上の図の左で色を付けた部分の面積というのは、右に示したような(色を付けた)円筒の面積に等しいわけだ。ということは、右の円筒部分の面積は
円筒の面積 = 2 π (1-cosΘ)
であって、左の半球の面積が(直径=1とすると)2πだから、円錐状のスカートの中の明るさは、スカートの広がる角度をΘとするならば、「スカートの中の明るさ」は
Equation
という実に簡単な式で表されることになる。アルキメデスも、まさか自分の球と円筒の表面積に関する発見が「スカートの中の明るさを示す式(ここでは仮に『パンチラの式』とでも呼ぶことにする)」を導くために使われるとは想像だにしなかっただろうと思うが、とにかくアルキメデスのおかげで私たちはスカートの中の明るさを知ることができるのである。

 試しに、このくアルキメデスの『パンチラの式』を使って、スカートの広がり角度Θに対して、スカートの中の明るさがどのように変化するかを計算してみると、その結果は下のグラフのようになる。このグラフは、横軸が「スカートの広がる角度」で、縦軸が「スカートの中の明るさ」を示している。周囲の「照明に照らされている床」の明るさを1とした時の「スカートの中の明るさ」を示しているのである。

Grap0

 基本的にはスカートが広がるにつれて「スカートの中の明るさ」は明るくなるわけであるが、このグラフを眺めてみると、スカートの広がる角度が20°を超えるあたりから次第にスカートの中が明るくなることが判るだろう。例えば、スカートの広がる角度が30°の時には、スカートの中は「床の明るさの10%程度の明るさ」しかないが、スカートの広がる角度が60°にまで広がれば、スカートの中は「床の明るさの半分程度の明るさ」になる、ということが判るわけだ。


 ところで、人間の目というものは「見るものの明るさ」に合わせて順応する。例えば、暗いものを見るときには目の感度は自動的に上がる。だから、スカートの中がほのかでも明るかったならば(例えば床の明るさの5%程度にでも明るければ)、自動的にその明るさに目が順応してスカートの中が見えてしまうかと思いきやそうはいかない(ハズだ)。なぜなら、人間の目は明るいものを見る時には、目の感度が逆に自動的に低下してしまうからである。スカートの中以外の明るい場所(例えば照明や、照明に照らされた明るい壁)だって、自動的に視界の中に入ってくるわけで、目の感度はそういう明るい部分に自動的に合ってしまうハズなのである。

 例えば、下の画像は周りの明るさに対して、
  1. 5%の明るさ
  2. 10%の明るさ
  3. 20%の明るさ
を持つ三種類のロゴである。この三つの画像を眺めてみれば、明るさが5%のものはなかなか判別しにくいが、20%以上の明るさのものであれば比較的容易に判別できることが判るだろう。明るいものが視野に入っている限りは、人間の目は「一番明るいものの10%以下程度の明るさのモノ」はなかなか識別することはできないのである。

5 %
5 percent
10 %
10 percent
20 %
20 percent

 ということは、先のグラフで「スカートの中の明るさ」が10%を超えていないと、つまりは周囲にある明るい床(や照明や壁)などの明るさの10%を超えているくらいでないと、スカートの中が仮に幾何学配置的に見える条件であったとしても、実際には目の感度的にその中のようすを判別することができないに違いないのである。その場合、おそらく明るい床や壁の明るさに目の感度が合ってしまい、ほの暗いはずのスカートの中は真っ暗にしか見えず、幸か不幸かスカートの中身は識別することができないハズなのだ。

 というわけで、先ほどのグラフに「識別できる明るさか否か」を書き入れてみると、次のグラフのようになる。

Graph

 つまり、スカートの広がる角度が25-30°を超えていないと、スカートの中身は周囲の床や壁の明るさに比べて相対的に暗すぎて人間の目ではおそらく見ることができないのだ。


 例えば、スカートの広がる角度が30°以下に制限されるようなタイトスカートを穿いて、明るい壁や照明などが視界にどうしても入ってしまうような場所にたたずんでいる限りは、もし仮にスカートの中を覗かれたとしてもスカートの中は(人間の目からすると)真っ暗で何も見えないわけで、スカートの中身を見られたりするような被害にあうことはまずないだろう、ということが先のアルキメデスの『パンチラの式』から判るわけなのである。「吹き抜け構造の建物内で階下から階上を見上げられる場所」や「建物内外の渡り廊下を見上げられる場所」なんかであったとしても、背後に明るく輝くものがある限りには、見る人の目を眩ませることができて、スカートの中身は安全なわけである。

 ところが逆に、床が白かったりして明るいクセ(つまり下からの照明が強いクセ)に、周りに明るい壁や照明が何故かあまりないような場所がもしあったとして、もしそんな場所で(下から)スカートの中を覗かれたりしてしまうと、(下から覗く人の視界に入る)周囲の明るさに比べてスカートの中が十分明るく見えるせいで、しっかりとパンツの模様をチェックされてしまうということになるだろう、ということも予想することができてしまうのである。だから、そんな場所をもしも短いスカートをはいて歩かなければならないような場合には、例えば何かの「ピッカピッカ輝く光りモノ」でも身につけて、その光りモノの明るさを「スカートの中身をのぞこうとするスナイパー」の視界に入れて、彼らの目を眩ませてしまえば良いだろう、というアルキメデスの知恵さえ授けてくれるのだ。

 
 ところで、今回は「スカートの中の明るさを示す=パンチラの式」を考えてみたわけであるが、この式は考えるまでもなく実にアブナイ式である。パンチラの被害防止に役に立ちそうな気もするし(全然役に立たないような気もするが)、逆に単なる「パンチラの科学」になってしまっているような気もしてしまう。「スカートの中身をのぞこうとするスナイパー」の魔の手から逃げるためのバイブルになるような気もするし、「スナイパー」のための手引き書になってしまいそうな気もする。ギリシャ神話で、あらゆる災厄が入っていたという箱がパンドラの箱だったけれど、このパンチラの式だって案外そんなパンドラの箱のような、色んな災厄の元になってしまうものかもしれないのである。しかも、パンドラの箱の場合には最後に箱の中に『希望』が残っていたわけでまだ良い(?)のである。しかし、アルキメデスの『パンチラの式』の場合には「スカートの中にだっては『希望』が入っているのだぁ」などと口に出したりしたら単に変態扱いされてしまうだけなわけで、そこはパンドラの箱よりもずっとたちが悪いのである。つまりは、科学もアルキメデスの『パンチラの式』も使う人次第なのである。

2003-07-21[n年前へ]

美人の微分方程式 

あなたの写真を美人にしよう

 ここで作成したソフトのオンラインバージョンが作成されています。


あなたの写真を美人にしよう

 先日、ブサイク・フィルタという面白いソフトウェアを知った。それが一体どういうものかというと、なんと画像の微分成分を原画像に足すことで「どんな美人もブサイクにしてしまう」という画像処理ソフトなのである。何が美しく何がブサイクか、というのは人間の感性の問題でもあるし、そんな美醜を機械が処理するのは難しそうに思えるだろう。しかし、実際にブサイク・フィルタのアプリケーションで処理を行ってみると、下に示した例で判るように、確かに「美人がほどよくブサイクになってしまっている」ことが判る

原画像
原画像
「ブサイク」処理後
ブサイク画像

 このフィルタは一体どうやって美女をブサイク化しているのだろう?と不思議に思いながら、ブサイク・フィルタの説明書を読んでみると、そこには
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という式で処理をしている、と書いてある。通常、スケッチ風にしようとして微分することはあるが、それでブサイクな感じも得られるというのはちょっと新鮮だなぁと思っていると、前後して
 画像の微分成分を原画像に足すことで「どんな美人もブサイクになる」のなら、画像の微分成分を原画像から引くと「どんなブサイクも美人になる」のでしょうか
なんていう質問メールを頂いた。なるほど、確かに
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という方程式が成り立っているのであれば、この式を少し変形した
美人画像 = ブサイク画像 - 微分成分
という方程式だって、成り立っているかもしれない。人を勝手に「ブサイク」にしてしまうフィルタも面白いが、人を勝手に「美人」にしてしまうフィルタだって同じように面白いかもしれない。しかも、面白いだけではなくて実用性もあるかもしれないということで、今回はこの「美人画像の微分方程式」について考えてみることにした。

 まずは、
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という式により行われている処理がどのようなものであるかを考えてみよう。これは「微分成分」が、明るいところと暗いところの境界部で大きくなるものであって、それを原画像の輝度値に足している(明るくする)と言うことから、結局、行われていることは「明るいところと暗いところの境界線を明るくする」という処理であることがわかる。

 そして、人間の顔の中では
「明るいところと暗いところの境界部」 =「目や口といった暗く色のついている部分」の境界部
であることから、この式は結局のところ「目や口の境界部を明るくする」という処理を行っていることになる。そして「目や口の境界部を明るくする」と、つまるところ「目や口が小さく見える」ということになる。「大きな瞳を持つ」ということは美人であるための大きな条件の一つだろうから、目が小さくなるということは、美人度が低くなり「ブサイク」になるというのはとても自然なわけである。これが
ブサイク画像 = 美人画像 + 微分成分
という「ブサイク」微分方程式の意味であるわけだ。

 そしてまた、逆に
ブサイク画像 - 微分成分
という処理をすると、目や口を大きくはっきり描くことになり、結果としてはきっと美人になるに違いないのである。だから、先のメールで指摘されていたように
美人画像 = ブサイク画像 - 微分成分
という「美人」微分方程式が成り立つに違いない、ということになる。

 とはいえ、これだけでは単なる推論に過ぎないわけで、実際に試してみなければならないだろう。そこで、この
  1. 「ブサイク」微分方程式
  2. 「美人」微分方程式
の処理を行うアプリケーションとPhotoshopプラグインを試しに作ってみて、これらの微分方程式が成り立つかどうかの実験をしてみることにした。

 まずは、「ブサイク」微分方程式をもう一度確認してみよう。これはもちろん先のブサイク・フィルタと同じで確かに「目や口が小さくなって」原画像よりもブサイクになっていることがわかる。

原画像
原画像
「ブサイク」処理画像
ブサイク画像
 そして、次に「美人」微分方程式の処理を行ってみた。原画像が元々かなりの美人なので判りにくいとは思うが、「美人処理」を行ったものは確かに美人化されていることがわかる。どうやら、「美人」微分方程式は正しく成立しているようである。

原画像
原画像
「美人」処理画像
ブサイク画像

 そして、もっとわかりやすいように、先に作った「ブサイク」画像に対して「美人処理」をしてみたものが次のようになる。もともとの「ブサイク」原画像がずいぶんと美人化していることを確認できることと思う。

原画像(「ブサイク」)
ブサイク画像
「美人」処理画像
ブサイク画像

 ところで、今回考えてみた「美人」微分方程式は目の縁取りを行うことで目を大きく美人に見せることになるわけであるが、それは結局のところ女性の化粧と同じである。「目の回りにアイラインやらアイシャドーやらを入れて、目を大きく美人に見せる」ということを機械的にしているだけのことである。「ブサイク」微分方程式は女性の化粧を落とした顔を見せているのと同じ事であるし、「美人」微分方程式は女性に化粧をした顔を見せているのと同じことである。女性は化粧次第で変身するとよく言うが、今回の処理をいろんな人達にかけて、その処理前後の画像をじっくりと眺めることで、その人達の化粧前後の顔を想像してみるのも面白いかもしれない。あるいは、あなたの写真を(もっと)美人にしてみるのも面白いかもしれない。

2003-09-20[n年前へ]

オトナとコドモの境界線 

 オトナとコドモの境界線をひくとしたら何処に一体ひくだろう。十五才?二十才?それとも三十才?あるいは、人によっては自分より下がコドモで自分より上がオトナなんて線をひいてしまうだろうか?そもそもコドモって何だろう。きっと、それは単に「オトナになってない状態」のことだろう。だとしたら、オトナって一体何なのだろうか?

 じゃぁ、というわけでまたもや新明解のページを眺めてみることにした。

自覚・自活能力も持ち、社会の裏表も少しずつ判りかけてきた人
 なるほど、「社会の裏表も少しずつ判りかけてきた人」がオトナなのである。しみじみと深い言葉なのである。何より先に「社会には裏表がある」という言い切ってしまうところがまさに新明解なのだ。新明解はきっと苦労を知っているのである。
 そして、ここでいう「裏」とは、きっとネットランナーに掲載されるような「裏ツール」などで使われる薄っぺらい「裏」という言葉とは次元の違うものに違いない、と思うのである。コドモが思う「裏」とオトナの思う「裏」とは世界がきっと違って、きっと「映画のセットの裏」と「現実の街角の裏」くらい違うものじゃないだろか、と思うのである。

 それにしても、オトナとコドモの境界線って一体どこにあるんだろう。

2003-09-22[n年前へ]

「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ) 

遠い彼方に見る陽炎

夕焼け
夕焼、小焼の、山の空
負われて見たのは、まぼろしか。

夕やけ、小やけの、赤とんぼ、
とまってゐるよ、竿の先

三木露風 「赤蜻蛉」 樫の実


 先日、はてなに寄せられていた検索の一つにとても興味を惹かれるものがあった。それは
 夕焼けこやけの「こやけ」、仲良しこよしの「こよし」の意味を教えて下さい
という何とも素朴に響く質問だった。年を経た三木露風が北海道のトラピスト修道院で少年の頃を思い出しながら作ったという、童謡「赤とんぼ」はとても有名だから知らない人はいないだろうが、言われてみればその「赤とんぼ」の冒頭の「夕焼けこやけ」の「こやけ」とは確かに一体何を意味していたのだろう?

 そこで、興味をそそられながら、その質問への回答を眺めてみると、
語調を整えるための(特に強い意味はない)接頭語ではないか
という答えに続いて
 夕日が沈んで暗くなった後に10~15分すると、もう一回赤く明るく光る「夕焼け」が見える。これを「小焼け」というそうだ
という回答が返されていた。「小焼け」というものが一般的に通用する言葉なのかどうかは判らないが、それでも具体的に説得力のある説明に聞こえる。この説明のとおり、「夕焼けこやけ」の「こやけ」が日暮れ後にもう一度光るという夕焼けであるとするならば、その夕日が沈んで暗くなった後に「10~15分すると」「もう一回赤く明るく光る」という「小焼け」というのはどんな夕焼けなのだろうか。


 この「小焼け」の不思議なところは、「日没後に10~15分するともう一回赤く明るく光る」という「現象の不連続性」である。日没後にだんだんと光が強まるのでも薄まるのでもなく、まるでフラッシュバックのように不連続的に「10~15分するともう一回明るく光る」というのはとても不思議に思われる。何らかの「境界」がないことには、そんな風にパタンと何かがひっくり返されるように不連続な現象が起きるとは思えない。

 そこで、こんな風に推理してみた。「小焼け」というのは、日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が、私たちの頭上に浮かぶ雲を下側から照らし赤く光らせているさまを指しているのではないだろうか?地上に立つ私たちから見るとすでに日も沈んでしまった後に、だけど私たちの頭上高くに浮かんでいる雲からはまだ夕日が見えるような時に、その雲が下側から照らされて夕日の赤い光を私たちに向け反射させているさまを「小焼け」というのではないだろうか?そしてまた、夕日は太陽の角度が低ければ低いほど大気中を通過する光路長が長くなりきれいに赤くなるし、それに加えて太陽の角度が低ければ低いほど太陽光が雲に当たる角度が深くなるため雲の下側に当たる光の量が多くなる。だから、雲の高さから見た日没の時に雲の下側が一番強く赤く照らされることになり、その直前のことを「小焼け」というのではないだろうか?

 こんな推理にしたがって、簡単な計算をしてみることにした。秋の空に浮かぶ雲といいえばひつじ雲やいわし雲といった高積雲である。それらの雲の高度は私たちの頭上7~10kmといったところだろうか。その雲から見た日没というのは地上の私たちから見た日没からどの程度後になるだろう?ざっと計算をすると、その結果は雲の高度が7kmのときに約11分後、雲の高度が10kmのときに約13分後になる。私たちの頭上でなくてもう少し西の空に浮かぶ雲であればそれよりは若干遅くはなるけれど、それでも数分の違いも生まれるわけではない。つまり、私たちが日没を見た十数分後に、空に浮かんでいる雲の下側に一番強く夕日の光が差し込み、雲の下面が私たちに向かって赤く輝くことになる。

 そういうわけで、「小焼け」というのが「日没後に地平線の向こうに沈んだ太陽が頭上の雲を下側から照らし赤く光らせているさま」だと仮定してみると、ちょうどその現象が起きるのが私たちから見た日没後十数分後であることから、
夕日が沈んで暗くなった後に10~15分すると、もう一回赤く明るく光る
という現象を上手く説明できることがわかる。「夕焼け小焼け」の「小焼け」は、夕日が私たちから見ると地平線の彼方に沈んでしまって見えなくなった後に、それでも私たちの頭上高くに浮かぶ雲を幻のように照らしている現象だと考えると上手く説明がつくのである。

 そういえば、三木露風が最初に発表した「赤蜻蛉」の詩は「夕焼け小焼けのあかとんぼ」ではなくて「夕焼け小やけの山の空」だった。だから、三木露風が夕暮れに「見たのはまぼろしだったか」と呟いたのは元来は「赤とんぼ」ではなく「夕焼け小焼けの山の空」で、そんな風に呟くとおり、地平線の向こうの夕日を頭上の雲を鏡にして見るという、「小焼け」はまさに蜃気楼か陽炎のような現象だと考えてみるのはとても自然で、そして興味深いことだと思う。

 なぜなら、後年に「赤とんぼ」と改名したけれど、三木露風がこの詩につけた題名は「赤蜻蛉」であるからだ。詩の中では「赤とんぼ」とひらがなを使っているにも関わらず、とんぼの古名に由来する蜻蛉(とんぼ)の古名を、その漢字のとおり「蜻蛉(かげろう)」をこの詩に名にわざわざ使っているからである。つまり三木露風はこの詩を「赤とんぼ=赤い陽炎(かげろう)」と名付けたのである。地平線の向こうに隠れた夕日(太陽)が炎のように燃え上がるちょうど陽炎のような「夕焼け小焼け」意味する題をこの詩に名付けているからである。
小焼け

 そういえば、三木露風は三十三才の時、北海道で夕日の中を飛ぶ赤蜻蛉(アキアカネ)を見ながら、子供の頃を思い出しつつこの詩を作ったという。きっと、蜻蛉(かげろう)が飛ぶ夕焼けの景色を眺めながら、陽炎(かげろう)のように浮かぶ小焼けの向こうに昔をまぼろしのように思い出していたに違いない。

 秋の夕暮れに日が沈んだ後の美しい夕焼けを眺めていると、地平線の彼方に沈んだ太陽が炎のように雲に浮かび上がる「小焼け」の様子を眺めていると、色んな幻が地平線や水平線の彼方に浮かびあがってくるような気がする。三木露風が眺めたように
、昔眺めた景色がどうしても陽炎のようにふと浮かび上がってくるような気がする。雲の下が赤く照らされる様子を眺めながら、そんないつか見た景色を少し眺めてしまうのである。

2004-03-07[n年前へ]

寄せて上げる「流体レンズ」 

 屈折率の異なる導電性の水溶液不導体を容器に封印し、印加する電界でその境界面の形状を帰ることで自由に焦点距離を変えることができる「FluidFocusレンズ

 なにげに面白かったのが、このスラッシュドットのコメント。重力でレンズが「垂れて」しまうかも、というコメントである。なんで、流体レンズでhirax.netにリンクが?と思ったら、水風船バストモデルで重力の影響を考えた「バスト曲線方程式」にリンクが張られていた。なるほど、確かに流体レンズも水風船バストそのものに違いない。

 とはいえ、携帯電話のレンズというようなサイズであれば、つまりは小さな小さな携帯電話のレンズサイズの微乳(小胸さん)レンズであれば、力のオーダー的にはそれほど垂れないのかも。とはいえ、一眼レフのカメラのレンズのようなサイズ、つまりは巨乳レンズサイズになると、さすがに「寄せて上げ」ないと垂れてしまうように思えるけれど。



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