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2009-04-20[n年前へ]

「あなた」に薦めたい「しりあがり寿のマンガ入門」と「山田ズーニーのおとなの小論文教室。」 

 心の中に「何かはわからないけれど、何かをしたい」という気持ちををうっすら抱えている人、「何かをしたいけれど、どうしていったらいいのかよくわからない」という悩みを抱えているひと、「今のままで、このままで、本当にいいのだろうか」と考える時があるひと、そんな「あなた」に心から読んで欲しい・薦めてみたいと思うのが、しりあがり寿の「表現したい人のためのマンガ入門 」と山田ズーニーの「おとなの小論文教室。(1)~(3)」です。これらの本の中には、タイトルからはわかりづらい、素晴らしい内容が詰まっています。

 しかし自分には決定的な問題点がありました。「やりたいもの」がハッキリしないのです

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 しりあがり寿の「マンガ入門」が私たちに教えてくれることは決して「マンガの描き方」ではありません。そして、山田ズーニーの「おとなの小論文教室。」が私たちに伝えようとしていることも、「小論文の書き方」ではないのです。

 「表現したい人のためのマンガ入門」と「おとなの小論文教室。」に書かれていることを、それをひとことで言えば、雑な表現であることを覚悟の上で一文で書けば、それは「生きていくためのコツ」「自分の活かし(生かし)方」を教えてくれる本・文章です。「自分」を知り、自分以外の世界を知り、そして、その世界の中での自分を見失わず歩いて行くためのアドバイス、が繰り返し書かれています。

 自分がいま、この手で紡ぎだせないものを、自分にはちゃんとイメージする力がある。
 それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないから、こんなに駆り立てられるのだろう。自分で作らなければ「無い」ものだから絶望するのだろう。

山田ズーニー
「17歳は2回くる おとなの小論文教室。(3)」
 山田ズーニーは、痛々しいほど真摯にとても力強く、かつひどく繊細な言葉を重ねて。そして、しりあがり寿は、非常に論理的でいて、それでいて限りなく自然なバランスで気楽な書き方で。二人のスタイルは180°ほどに異なっているように見えても、二人が書いたこれらの本は、いずれもが同じ「自分の可能性・潜在力を見つけること」「自分を表現する・活かすこと」「他の人に伝え・繋がること」、それは一体どういうことなのかということを教えてくれます。
 人間はもともと、何かのために生まれるものではありません。何かの職業につくとか、何かの使命を果たすとか、生まれながらにして決まっていることは何もない。ただし、あえて生まれてきた目的はといえば、生まれたこの世界に受け入れられること、それ自体じゃないでしょうか。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 それにしても、しりあがり寿のバランス感覚には驚かされます。不思議に敏感な感性と、データに裏付けされた論理と予測、そして、それらをまとめる絶妙なバランス感覚は、男性の私から見るとある意味で理想の大人に思えます。

 読者に見捨てられると食えないから、でもとりこまれると自分を見失うから、読者とつながる小指一本に力をこめます。
 自分のどこが悪いか考えることがあります。直さなきゃいけないところから順に並べたりして、でも面倒くさくなって、ほうってしまいます。
 いろいろ書いてきたけれど、…必要なのは、馬が走るように、犬が吠えるように、人が祈るように、ひとコマひとコマ、1ページ1ページ、まるで息をするようにマンガを描き続けること。ただそれだけかもしれません。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

2009-04-22[n年前へ]

民主主義も商業主義も「衆愚」という一面をもつ 

 しりあがり寿の「表現したい人のためのマンガ入門 (講談社現代新書) 」から。

 もともと、民主主義が「衆愚政治」と呼ばれる一面をもち、自ら帝政や独裁を招いて崩壊した過去があるように、商業主義に依存した出版文化にも常にその危機は含まれています。民主主義も商業主義も多数をとったものが勝者であり、正しいと評価される。しかし、当然ながら多数の賛成することが必ずしも正しいとは限りません。あらかじめ決められた「正しさ」などというのはこの世にないにしても、「量は必ずしも質をともなわないなー」という感覚は多くの人が持っていると思います。

マンガのこれから、ボクのこれから

2009-04-27[n年前へ]

「世間」と呼ばれ「消費者」と呼ばれ「大衆」と呼ばれるモンスターと 

 文章が限りなくロジカルで、なのにとてもラジカルで、それでいてリリカルな、しりあがり寿の「人並みといふこと 」から。この本は、というより、しりあがり寿は、やはりとても素晴らしい。もっともっと早く、しりあがり寿が描いたもの・書いたものを読んでおけばよかった。

 もし娘が「お父さんやお母さんのように漫画家になりたい」なんて言ってきたらどうしよう。
 君が大きくなるころ、「世間」と呼ばれ、「消費者」と呼ばれ、「大衆」と呼ばれる快楽と安穏を貪るモンスターは、さらに巨大になり、さらに素早く獰猛(どうもう)になり世界中を嵐のように暴れまわるだろう。君はそんな中、自分を見失わないでスックと立ってられるかい?

p.104

2009-05-27[n年前へ]

小説やドラマとは違う、マンガ原作の書き方とは? 

 「小説やドラマとは違う、マンガ原作の書き方とは?

 中でも、「マンガ的発想」が大切だという指摘が興味深い。活字的発想の持ち主=活字屋は、小説やドラマのシナリオと同様に、ストーリー優先でマンガのシナリオを発想しようとするけれど、マンガの場合は通用しないという。 マンガ的発想では、ストーリーよりもキャラクター優先で考えるというのだが…… 詳しいことが知りたい人は、続きをぜひ「本書(マンガ原作の書き方77の法則) 」で確認して欲しい。

2009-07-12[n年前へ]

研究レポート風 「天才バカボン」における”バカボン”の由来 

ハジメに

 赤塚不二夫のマンガ 「天才バカボン 」は、バカボンのパパ・ママ、そして”バカ”な長男バカボンと次男の天才ハジメの周辺を舞台にしたギャグ・マンガである。マンガのタイトルにもなっている「バカボン」という名前は、英語の”vagabond”(バガボンド=放浪者)からきているという説と(一例としてWikipediaを挙げる)、釈迦・世尊を意味する”薄伽梵”(バギャボン=サンスクリット語の“Bhagavad”)に由来する()という2説がある。

残念なことに、ネット上において、いずれの説が正しいのかを判断しうる資料を見つけることは難しいのが現状である。 そこで、本文章では、バカボンという名前の由来が「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にあることを確認する。そして、”薄伽梵”説の(主観的)理由である「バカボンのパパの常套句”これでいいのだ”という言葉が”覚りの境地”を連想させ、仏教的な思想を感じさせること」について、「これでいいのだ」という生き方は赤塚不二夫が自身の父から得たものであることについて述べる。

本人が語る「バカボン」の由来

 「バカボン」の由来について、赤塚不二夫自身は、「バカボンド”vagabond”=放浪者」であることを語っている。たとえば、1975年9月9日に「話の特集」編集室にて和田誠を相手にしたインタビューで次のように語っている(インタビューの内容は自由国民社「赤塚不二夫の特集 (話の特集ライブラリー) 」 p.245 "赤塚不二夫 自作を語る"で読むことができる)。

 『バカボン』をやろうとした時は、(中略)もっと本格的な馬鹿を主人公にしたくて、スタッフに相談したら猛反対にあった。
 最初はタイトルも『天才バカボンド』って考えた。なんとなく幸福な世界を放浪する感じで。ところがバカボンドという言葉は日本人には縁が薄いから、バカボンになった。
 設定としては、バカボンが馬鹿で、そこに天才の弟が生まれてきて、その二人で何とか話ができると思ったけど、描いているうちにおやじが目立ってくる。それからおやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった。
 ここで赤塚不二夫が書く「スタッフの猛反対」というのは、本格的な”馬鹿”を主人公にすることへの心配、である。
 その経緯については、小学館の赤塚不二夫担当編集者だった武井俊樹も「赤塚不二夫のことを書いたのだ!! 」中でこう綴っている(p.121)。
(マガジンの内田編集長が)子供のバカボンの他にも、利口な子を出してくれと注文をつけた。韓国で話題の、天才少年キムが頭にあったのだ。
 赤塚も折れた。天才のハジメと、馬鹿なバカボンの組み合わせで行こう、ということになって、タイトルも『天才バカボン』となった。
 

 「天才バカボン」のタイトルの「天才」は二男ハジメを意味し、バカボンは”馬鹿”であると同時に”放浪者”も想い起させる長男バカボンを指している、というわけである。「バカボン」=「バカボンド」であると同時に、「バカボン」=「馬鹿」であることを、赤塚不二夫自身が説明しているのである。
 これに対し呈される疑問として、次のようなものがある。

ちなみに1993年に赤塚本人がテレビ番組で「バガボンド説」を言っているが、「だからパパは無職でなくてはならない」とも言っており、バカボンではなくパパを基準にしているところが疑問でもある
これは、赤塚不二夫が「(描いているうちに)おやじが主人公みたいになって、最後は独壇場になっちゃった」と語るように、赤塚不二夫の当初の意図とは異なり、「バカボンのパパ」がマンガの主人公になってしまったから、ということに思われる。「バカボン」という名前で象徴されるものが、長男ではなくパパになってしまったから、と考えるのが自然である。

 「バカボン」は、「(本格的な)馬鹿」であり、幸福な世界の放浪者「バカボンド」なのである。

「これでいいのだ」という思想

 赤塚不二夫は、自著「赤塚不二夫―これでいいのだ (人間の記録) 」(日本図書センター)中の冒頭と最後において、「これでいいのだ」という言葉について、このように書いている(p.18,p.212)。

 天才バカボンのパパがよく口にする”これでいいのだ”は、ぼくのおやじの生き方と共通するものがある。果たして、”これでいいのだ”という人生をおやじは生きたかどうかはわからないが、少なくともそういえるような生き方を目指したことはたしかだと思う。
 おやじの死の間際、ぼくの言った「おやじ、もういいよな!」に対して、おやじは声にならない声で「うん」と答えた。あれはきっと「うん、これでいいのだ」と続くはずだったのではないか、と思う。
 また、「バカボン線友録!―赤塚不二夫の戦後漫画50年史 」の中では、もっと端的に
バカボンのパパのモデルは、僕のオヤジだ。パロディー化して、似ても似つかないけれど、オヤジの「精神」は込められている。
と書いている。
 赤塚不二夫の父は、終戦後4年間シベリアで抑留生活を過ごした。赤塚不二夫は、その時代以降ずっと”これでいいのか?”と父は父自身に問いかけていたはずだと「こでいいのだ」の中で書いている。”覚りの境地”を連想させる「これでいいのだ」という言葉は、そんな生き方をした父から赤塚不二夫が得たものなのである。「バカボンのパパ」は赤塚不二夫の父なのである。

サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性

 「サンスクリット語と英語の祖先は共通である。だから、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性もある。それならば、”バカボン”の語源が”vagabond”でもあるならば、“Bhagavad”との類似点があってもおかしくない」という考えを支持する人もいる。

 確かに、サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族という大語族のインド派に属し(ピエール=シルヴォン・フィリオザ「サンスクリット 」)、音声・文法・語彙などの面から、サンスクリット語や英語は古代言語”インド・ヨーロッパ語”から派生したものであるという説が有力である(アンリエット・ヴァルテール「西欧言語の歴史 」藤原書店)。

 しかし、サンスクリット語“Bhagavad”が、”恵まれた”ということを意味するサンスクリット語”bhaga”から派生しているのに対し、英語”vagabond”は、”はっきりしない・さまよう・曖昧な”という意味をさすラテン語の”vago”に由来している。語感が似ているという考え方もあるが、この2つの言葉の由来となる語句の意味するところは、大きくかけ離れていると言わざるをえない。したがって、サンスクリット語“Bhagavad”と英語”vagabond”の祖先が共通である可能性は低い、と判断する。

おわりに

 赤塚不二夫「天才バカボン」の”バカボン”の由来は「放浪者”vagabond”」と「(いわゆる日本語の)”馬鹿”」にある。また、「これでいいのだ」というバカボンの思想は赤塚不二夫の父から(赤塚が)得たものである。

 バカボンのパパの言葉は強靱な哲学です。それは人間を、不必要な後悔や罪悪感から解放して、より自由に世界を眺める手立てを教えてくれます。辛いときにこの言葉を呪文のように唱えてみることをお勧めします。

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