2006-03-20[n年前へ]
■「24色肌色クレヨン」と「センのパラドックス」 
from n年前へ.
「24色肌色クレヨン」黒・茶色・薄オレンジ・赤色…24色がどれもみんなそれぞれ違う、だけど、「どれもみんな同じ肌色」だと知ることができる肌色クレヨン。
定義域の非限定性(=どんな変なヤツもいるような社会?)であれば、「リベラル」的かつパレート的な(=どいつのわがままも聞きながら、みんなが満足するような?)社会決定はできない。
2006-03-22[n年前へ]
■「自分の定義」 
from n年前へ.
「何かである自分」がポジティブな提示による自分なら、「何かでない自分」はネガティブな提示による自分なのだろうか。そして、それが「何かになれる自分」や「何かになれない自分」などという提示なら、内容的にもポジティブさやネガティブさがさらに増すに違いない。
【何かになれないおれカネゴン】
そんな自分に少し迷ってしまうなら、いっそ「自分」を「他人でないもの」とネガティブな提示で表してしまうのも良いのだろう。そして、トートロジーの迷路の中で、果たして自分や他人が「語り得るもの」かどうか、右往左往しつつ迷ってみるのも一興かもしれない。
と、考えているうちに、カントもヴィトゲンシュタインもそんな自分を「バカ」と一言で言い表してしまうに違いない、と何故かポジティブに思い至る。
【たった二文字でおれカネゴン】
2006-05-12[n年前へ]
■経済学って何ですか?「金で買えないものはない?(仮題)」 
東京大学院総合文化研究科の松原隆一郎 教授(社会経済学・相関社会科学専攻)に先日話を伺いに行った。ホワイトボードにたくさんメモを取りながら話を聞いた。今日、その原稿を編集者宛に送付(リリース)した。ホワイトボード4面分のラクガキと、テープから起こした1万5千字ほどの文章をまとめ直して4千字だ。…たくさん内容を削ったが、興味深い内容も多かったので、私のメモ書き分はいずれ出していくことにしたい。特に、原稿にできない「曖昧な内容」こそが興味深かったりすることも多いわけだし。
そういえば、これから何人かの経済学関連の人に話を聞きに行こうと考えた時に、自分の中で決めたことが一つある。それは、「一つの定義・考え方があるという期待・思いこみ・態度」は話を聞き原稿を書く中では一切捨てよう、ということだ。これから色んな話を聞いていく中で、その人ごとに違う意見・違う見方・違う言葉の定義をするだろう。私は単純理系?おバカのせいか、どうしても「シンプルな一つの定義・考え方がある」というように行動してしまいがちだ。しかし、この原稿を書く中では、そういう態度はゴミ箱の中に放り込んでおこう、と決めている。だから、もしかしたら、毎回食い違うことを書くことになるのかもしれない。いや、きっとそうなるに違いない。
2006-05-17[n年前へ]
■「ドラえもんになりたい人が(潜在的)技術系の人だ」 
今日の「n年前へ」は『たくさんの「ドラえもん」と「のび太」たち』「今日見た景色」などです。
もし勝手に今日だけの「オレ定義」をしてしまうなら、(少なくとも一瞬でも)ドラえもんになりたいと思ったことがある人を(潜在的)技術系の人だということにしよう。
2006-06-29[n年前へ]
■「今という時代」の「写し鏡」 
新幹線の中で、雑誌や新聞から切り取ったスクラップを整理する。次の言葉は、「フィルムカメラ v.s. デジタルカメラ」という内容で、朝日新聞に赤瀬川源平と篠山紀信がそれぞれ語ったインタビューの一部。赤瀬川源平の意見は、「デジタルカメラを使って、加工という"作為"を続けていくと、結局人間が頭で考える範囲におさまっていく。思いがけぬ写真が減り、"思いがける"写真ばかりになる」というもの。
写真は、そして写真家は、過去も未来も撮ることはできない。「今」しか撮れない。だからこそ、時代を写す「写し鏡」がカメラだと定義するなら、時代が生んだ最新のテクノロジーに偏見を持たず、それを使って時代を切り取り、そして時代と併走するのが写真家の務めでないか。 篠山紀信
