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2002-08-26[n年前へ]

CleType自主学習(仮) 

ちょっと真面目にClearType(仮)

- ちょっと真面目にClearType(仮) -
(2002.08.26〜)
  1. 楽しそうな「iMac」&「電子ブック」風ノートPC用スタンド -はじまり - (2002.08.26)
  2. 一本道か、分かれ道か - ドキュメントの縦横比について- (2002.08.29)
  3. 水平思考と垂直思考 - 文字の縦横解像度 - (2002.08.29)
  4. 細かくすると楽(粗く)になる? - ClearTypeの一番の秘密- (2002.09.09)

楽しそうな「iMac」&「電子ブック」風ノートPC用スタンド -はじまり - (2002.08.26)


 Lapvantageという楽しそうな会社を初めて知った。ノートPCをiMac風にするLapvantageDomeやPCを縦置きで使うためのLapvantagePortraitという、とても実用的でいて、それでいて明和電機のような面白い製品を作っている会社である。明和電機は兄弟が運営しているが、こちらのLapvantageの方はビアボーム親子がやっているらしい。iMac風スタンドの方は角度が振れないようのが(特にノートPCを立てられない)残念だが、Lapvantageの方はもう少しデザインがスマートであるならば今すぐにでも欲しくなる。
 

Lapvantage Products
Lapvantage Dome
Lapvantage Portrait

 複数の作業を切り替えながら作業をしたり、あるいはツールバーが多数出てくるようなソフトウェアを使って作業をする時には、左右に広いディスプレイが便利で使いやすい。しかし、単純に一つのドキュメントを読んだり、一つのドキュメントを書いたりする場合には上下に長いディスプレイを使うと、見通しがきいて考えをまとめやすくなる。気のせいか、頭の中の見通しがとても良くなるように感じたりする。だから、以前から横長の画面のノートPC(ToshibaPortege 320)を愛用していたりした私はノートPCの画面を横にして使ったり、縦にして使ったりと、画面を切り替えて使ってみたいと感じていた。AdobeAcrobat Readerであれば、画面を回転させて文章を読む機能があるので、これまでノートPCを回転させて電子ブックのようにして文章を読んだりすることもあった。 

 Lapvantage PortraitはPivotProのソフトウェア付きなので、Windowsの画面を自由自在に回転させることができる。だから、ノートPCを普通に横置きに使ってみたり、スタンドに載せて縦置きに切り替えて使ってみたり、と好きなように切り替えることができる。「これはなかなか便利そうだ」と思い、私も私も30日有効のPivotProのデモ版をインストールして使ってみることにした。

 そして、このソフトのインストールをきっかけにして

で調べたClearTypeに関して、ちょっと少し考えてみた。 (続く)

 

一本道か、分かれ道か - ドキュメントの縦横比について- (2002.08.29)


 前回書いたように、複数のことを考えるなら「左右に長いディスプレイ」が良くて、一つのドキュメントを読むなら「上下に長いディスプレイ」が良い。その理由を端的に言えば、「目が左右についているから」だと思う。

 まず、「目が左右に付いているので、あまりに大きい左右への目の動きは、目にとってとても非対称な作業であるから不自然」だ。だから、左右を眺めるときには自然と頭を左右に振ることになる。その頭を左右に振るという作業は、頭の中での何らかの切り替え作業を伴うような気がする。だから逆に、ツールパレットの切り替えのような「何らかの作業の切り替え」を伴う作業であれば、その左右へ視線を移動する(自然と頭も左右に動かす)ということはとても自然な行為になる。しかし、それは一つのドキュメントを読むような場合には、いたって不自然な行為になってしまう。だから、一つのドキュメントというのは本来「上下に長い=縦長」であるべきだと思う。

 そしてまた、「目が左右についているから」、人は上下方向を「一本道」に繋げて考える。例えば、絵画を眺めるとき、上に見える景色は多くの場合遠い景色で、下に見える景色は多くの場合近い景色だ。漱石の文学論の図を引くまでもなく、この「上下の遠さ、距離」というものを例えば時系列上の「一本道」に繋げるのは、いたって自然な連想だと思う。「遠い上」に見えるものは「遠い過去」で、下に来ればくるほど新しいことになる。それは、ドキュメントを読む場合に対応させて考えると、とても自然だ。それに対して、左右に並ぶものは決して「一本道」ではないのである。それは、「選択肢=分かれ道」であって、決して一つの道ではないのである。左右に並ぶものは「複数の何か」なのである。

 だから、一つのドキュメントは上下に並び、上下に長いべきなのである。ドキュメントの表示も同じく、縦に長いべきなのである。
 

「文学の焦点」

漱石 「文学論」より

 最近のPCであると、ディスプレイは通常横に長い。だから、本来縦に長くあるべきドキュメントを眺めようとする場合には、表示を90°回転させてやることもある。そうすると、本の一ページのようにして画面表示を眺めることができる。例えば、AcrobatReaderで表示画面を回転させたり、PivotProなど使ってPCの画面表示自体を回転させてやれば良いわけである。
 

Acrobat Readerで90°回転表示をする
回転させない場合
回転させた場合

 
PDF表示を90%回転させている例
縦長のドキュメントを読むことができる

 このように、ドキュメント表示のための縦横比については、単にディスプレイの表示を90°回転させてやれば問題は解決する。しかし、表示のためのもうひとつの条件、表示品質が問題になってくる。そもそも、液晶(二十世紀においてきたCRTは無視しよう)の解像度はまだま低くて、それを改善するための技術としてClearTypeやCool Fontがあるのだけれど、AdobeのCool Typeはともかく、Clear Typeの場合には表示が90°回転しているという情報をClearTypeが取り扱わない(知らない)ために、上手く動かなくなってしまう。ClearTypeにしてもCool Fontにしても、液晶のRGBのカラーフィルターの並び方を利用してやることで解像度を高めているわけで、その並びの変化(表示の回転)に対応できない場合には表示品質を大幅に落とすことになってしまう。

 次に、「ファイト!縦文字文化 -縦と横の解像度を考えよう - (2001.04.29)」で考察した、文字の解像度についてもう少しちゃんと考えてみることにする。



 

水平思考と垂直思考 - 文字の縦横解像度 - (2002.08.29)


 ドキュメントを表示させるためには、文字を表示させてやらなければならない。しかし、液晶ディスプレイの解像度は必要十分には高くないから、文字はつぶれてしまうことが多い。例えば、「現実問題春夏雪雹資本主義電計算機」なんて文字を表示させてみるとかなり潰れてしまい、非常に読みにくいのが判るはずである。これが、英語の"RealProblem seasons Snow capitalism Computer"なんて文字であれば、まだマシである。

 この日本語と英語の文字の解像度の差について考えてみる。比較例は下に示した、「漢字」と「英語」のテキストを用いることにする。
 

日本語と英語の文字の解像度
「漢字」
「英語」

 まずは、600dpiで20ptのMS Pゴシックのフォントを展開して上のような画像にした後に縦・横方向のそれぞれの解像度を考えてみる。ここでは、縦・横方向の黒い線(あるいは線でない部分)の太さ(幅)の分布を測ってみることにした(今回解析のために作成したソフトはここ(RunLength.lzh)においておく)。テキストのような二値の画像の「解像度特性」を計測するのであれば、このような解析にしなければならない。「ファイト!縦文字文化 -縦と横の解像度を考えよう - (2001.04.29)」でやったようなフーリエ解析は適切な方法ではないのである。

 下の図が縦・横方向の黒い線(あるいは線でない部分)の太さ(幅)の分布である。縦方向に計測した黒い線(あるいは線でない部分)の太さというのは、結局のところ横線の太さ(あるいは線の間隔)であり、横方向に計測した黒い線(あるいは線でない部分)の太さというのは、結局のところ縦線の太さ(あるいは線の間隔)ということになる。どれだけの細かさで「太さ」(あるいは「位置」)を描いてやらなければならないか、を示すグラフということになる。
 

600dpiで20ptのMS Pゴシックのフォントをビットマップに展開してみた場合
「漢字」の場合
「アルファベット」の場合

 「漢字」の場合には「Vertical 方向で計測した線の太さ(あるいは線の間隔)、すなわち横線の太さ(あるいは線の間隔)」が「縦線の太さ(あるいは線の間隔)」に比べて、大きく小さい方にシフトしていることが判ると思う。また、横線の量が縦線の量に比べてずっと多いことも判ると思う。後者は「数字文字の画像学 -縦書きと横書きのバーコード - (2000.01.21) 」で考えたことと全く同じで、「日本語は横線が多い」ということを端的に示している。そして、前者は「Vertical方向で計測した(すなわち横)線の太さ(あるいは線の間隔)」が縦のそれより大幅に小さいということは、「漢字」の解像度は縦方向に大幅に解像度が高い、ということを示している。漢字は縦書き文字故に鉛直思考志向なのである。

 一方、「アルファベット」の場合には、これも「数字文字の画像学 -縦書きと横書きのバーコード - (2000.01.21) 」で考えたことであるが、縦線と横線の量においてはむしろ縦線の方が多いことが判る。水平方向に対して情報量が多いのである。アルファベットは水平思考志向なのである。「アルファベット」の情報量はそのかなりの部分が縦線によるものなのである。そしてまた、線の太さ(あるいは間隔)は横線の方が細い(あるいは線間隔が短い)が、その横線であっても「漢字」の縦線程度の解像度であることが判る。「漢字」に比べて「アルファベット」の解像度は低いのである。

 ただし、文字の解像度を「線の太さ(あるいは間隔)の最小値」だけで論じることはできない。「適切な線の太さ(あるいは間隔)」にすることができるほどに解像度が十分高いか、ということも重要である。もし、そうでなかったら線が妙に太くなったり、細くなったりしてしまったり、あるいは、線の間隔が妙に近づいたり離れてしまったり、つまりは文字のプロポーションが崩れてしまったりするだろう。上の場合は600dpiで文字を表示させた場合の解析例だが、次に現在の液晶と同じような解像度(例えば)150dpiでこの文字を表示(展開)させてみる。こうすることでことで「適切な線の太さ(あるいは間隔)」にできていない様子を確認してみたい。
 
 
 



 

細かくすると楽(粗く)になる? - ClearTypeの一番の秘密- (2002.09.09)


 まずは、「現実問題春夏雪雹資本主義電計算機」という漢字と"RealProblem seasons Snow capitalism Computer"というアルファベットを現在の液晶と同じような解像度(例えば)150dpiでこの文字を表示(展開)させてみた。そして、前回と同じようにそのビットマップ画像の「縦・横方向の黒い線(あるいは線でない部分)の太さ(幅)の分布」を調べてみる。その結果が下のグラフである。また、前回に調べた、これよりも4倍程解像度が高い「600dpiで20ptのMSPゴシックのフォントをビットマップに展開してみた場合」をさらに下に比較用として示してみる。
 

150dpiの解像度で20ptの文字を出力してみた
「漢字」の場合
「アルファベット」の場合
600dpiで20ptのMS Pゴシックのフォントをビットマップに展開してみた場合
「漢字」の場合
「アルファベット」の場合

 150dpiでTrueTypeをビットマップに量子化した場合には、漢字・アルファベットの場合共に、縦・横方向とも600dpi単位で4,8pixelの太さ=150dpiで1,2ピクセル幅のパターンが発生していることが判る。このようなパターンは、600dpiで20ptのMSPゴシックのフォントをビットマップに展開してみた場合には見られなかったものである。つまり、、着目すべきは例えばアルファベットの場合、

  • 縦方向には幅10pixel(600dpi単位)=2.5pixel(150dpi単位)以下の高い周波数は存在していなかった
  • 横方向には幅13pixel(600dpi単位)≒3pixel(150dpi単位)以下の高い周波数は存在していなかった
ものが、150dpiで量子化した場合には
  • 縦・横方向共に幅4,8pixel(600dpi単位)=1,2pixel(150dpi単位)以下の高い周波数が生じている
ことであり、漢字の場合も全く同じように、
  • 縦方向には幅7pixel(600dpi単位)≒2pixel(150dpi単位)以下の高い周波数は存在していなかった
  • 横方向には幅11pixel(600dpi単位)≒2.5pixel(150dpi単位)以下の高い周波数は存在していなかった
ものが、150dpiで量子化した場合には
  • 縦・横方向共に幅4,8pixel(600dpi単位)=1,2pixel(150dpi単位)以下の高い周波数が非常に多く生じている
ことである。液晶の解像度が低いために、その低解像度で量子化する際に「幅の狭い高周波のパターン」(歪み)が生成されてしまっているのである。そのような高周波のパターンが生成されてしまった場合には、低解像度のディスプレイで表示するためには、ますます無理が発生してしまうことになる。「低解像度の表示系の解像度に合わせて量子化(ビットマップ化)してしまうと、ますますその表示系では表示しづらい高周波のパターンが生成されてしまい、結果として読みづらい」という現象が生じてしまうわけである。

 また、これらの文字の場合には本来18〜15≒12pixel(600dpi単位)の線幅・線間のパターンが多いわけであるが、それを150dpi単位( =600dpi単位で4pixel )で量子化してしまうと、場所により4/12 = 33%もの線幅・線間の位置の誤差が生じてしまうことになる。不必要に狭い幅のパターンが作成されたり、不必要に広い幅のパターンが作成されたりして、これでは文字の線が太くなったり細くなったり、線の位置が狂ったりしてしまい、見にくいことこのうえない。これはすべて、150dpiという低解像度で量子化してしまったためである。「低解像度の表示系の解像度に合わせて量子化(ビットマップ化)してしまうと、ますますその表示系では表示しづらい高周波のパターンが生成されてしまい、結果として読みづらい」という一見逆説的に思えてしまう(しかし当たり前の)現象が生じている。

 ところで、本題のClearTypeの場合には横方向(通常の液晶はRGBの3つのサブピクセルが横方向に並べられているから)の解像度を3倍だと仮想的に考えて、横方向を3倍の解像度で量子化を行うことになる。ここで、話の単純のために3倍≒4倍と思うことにすれば、つまりはClearTypeの場合には本来150dpiの解像度であるにも関わらず、サブピクセルを考えて600dpiの解像度で量子化している、ということである。それは結局上の二つのグラフの比較と同じであって、ClearTypeを使うと実は表示すべきパターンが「より表示しやすい低い周波数のパターン」になっているのである。それは、「文字の線が太くなったり細くなったり、線の位置が狂ったりしてしまう」ことがなく、目にとってはとても見やすいパターンになるだろう。この量子化の段階について触れている情報は見たことがないが、実はこの量子化の段階にClearTypeの隠された(しかし、一番重要な)メリットがあるように思う。また、アルファベットの場合にはHorizontal方向に振幅を持つパターン(=縦線)が支配的に多いため、Horizontal方向に仮想的に高解像度の量子化を行うことは非常にメリットを効果的に得られると考えるのが自然である。

 次に、このように量子化されたデータをClearTypeで表示する際の問題点・その解決方法について考えてみていくことにしたい。

 P.S.ちなみに解析ソフト(RunLength.lzh)をアップロードしました。
 



 
 
 

2006-09-08[n年前へ]

「会社は誰のものか」と「効率重視」 

富士ゼロックス 企業広報誌GRAPHICATION 経済学インタビューをしていく中で、何回か「会社は誰のものなのでしょうか?」という質問をしました。いくつもの答えを聞きながら、私は「会社は株主のものなのかなぁ…」と感じていたのです。しかし、GRAPHICATION(グラフィケーション) No.146「特集:企業社会は今」を読み、その感覚や認識が変化したのです。

 それは、その特集中にあった、佐藤俊樹氏の「会社人間をこえて」や奥村宏氏の「もっと株式会社について考えよう」などを読んだからです。

 もし自分の犬が他人を噛んだら、所有者は相手の被害を償わなければならない。自分のものである以上、管理する責任があるからだ。所有するというのは、そういうことでもある。 ところが、会社法人が誰かに被害をあたえても、株主には賠償責任はない。…責任はとらないが自分のもの、なんて虫のいい話は資本主義の世界にはない。

佐藤俊樹 「会社人間をこえて」
 会社が株主のものなら、公害事件などさまざまな不祥事の責任は株主がとるべきなのに、誰もとっていないでしょう?…株主は、会社が倒産すれば株がただの紙切れになるだけで、それ以上の責任は持たされていないんです。 だから、会社が株主のものだという議論は矛盾しているわけです。 株式会社制度がスタートしたとき一番問題になったのは、会社が潰れたとき誰が責任をとるのかということです。

奥村宏「もっと株式会社について考えよう」
 この「自分のものである以上、管理する責任があるからだ。所有するというのは、そういうことでもある」といった言葉などを読みながら、「会社は株主のもの」という納得がしづらくなった…というわけです。

富士ゼロックス GRAPHICATIONinside out (hirax.net) ところで、経済学インタビューをするきっかけ自体がGRAPHICATION(グラフィケーション) の「特集:働き方を考える」中で書かれていた、「この世は不公平なものだが、それぞれが努力すればそれに見合ったものをみんなが得られるようになる社会をどうすれば実現できるだろう?ということを愚直なまでに考えるのが経済学だ」という石川経夫の言葉でした。前にも書きましたが、この雑誌は無料で購読することができます。また、購読申し込みをするとバックナンバーも送られてきたりしますから、購読していないという人は定期購読申し込みをしてみるのも良いと思います。実に質の高い記事を無料で読むことができる、という希少な雑誌です。

2007-07-06[n年前へ]

「物語」と「市場経済」 

 現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。

科学とオカルト 」P.7 はじめに
 「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。

 本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。

 宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。

科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
 元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。

 お客様は神様です。  三波春夫
 「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
 幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。

科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
 消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。

養老孟司
 

2008-04-28[n年前へ]

「スペシャルな人が周囲から孤立しないために」 

 お金は世界に通用するものです。その通用するものの流れで見たとき、人と人がどうつながり、どこに人の共感が生まれ、自分の何に対してお金が支払われ、自分は食べていっているのか?それをクールに観察してみてください。
   山田ズーニー「おとなの小論文教室」

2008-04-29[n年前へ]

「手作り三次元グラフ」と"Life Work" 

 少し前に、「仕事」と「趣味」を、「本人(自分)の欲求」と「他人の満足」という2軸で表される実軸・虚軸で表現される複素平面に描いてみました。注釈を付けるまでもなく、この「仕事」も「趣味」にもカッコ(「」)が付いています。

 カッコは、時に「いわゆるひとつの」という程度の意味を表したり、あるいは、時に「私の感じる言葉とは違うけれども、その人の使う言葉の定義に沿って使って・考えてみれば」というような意味合いで使われることがあります。だから、カッコ(「」)付の言葉が出てきた時には、あるいは、カッコ付の言葉とカッコが付かない言葉が同時に出てくる文章を読むときは、このカッコは何を意味しているんだろう?と考えると、その文章から何だか不思議な立体感を感じたりすることがあります。もしかしたら、それが文章の書き手の中の意識、書き手が眺めるものの距離感なのかもしれない、と感じます。

 さて、「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くを書いた次の日、"Life Work"という言葉を使ったら、どのようなことを思い、どのようなものを描き・書くだろうか、と考えました。「仕事」という言葉から、"Work"という言葉を経て、"Life Work"ということを考えたらどう思うだろう?と感じました。

 そして、もう一つ、「"自分(本人)の欲求・満足"と"他人の満足"という2軸で表される複素平面に、少なくとも"時間軸という軸を一つ増やしたい」とも強く思いました。私たちを大きく支配する軸でもあり、私たちにとって希少なものでもある"時間"という軸を増やしてみたいと、思ったのです。

 そこで、そんな三次元空間を「ホワイトボード」と「色粘土」と「焼き鳥用の串」で作ってみました。下の写真が、その手作り”三次元空間(複素空間)”です。


 黒色で示した横軸は"他人の満足"という軸(あるいは、その"他人の満足"が形を変えた”お金”といったもの)です。青色で示した縦軸は"自分(本人)の欲求・満足"を示す軸になります。そして、赤色で示した鉛直に真上に向かっている軸(色塗りした"焼き鳥用の串"と"色粘土"にしか見えないかもしれません)が"時間軸"です。

 誰かが行う何かの作業を考えたとき、この空間はその誰かの作業に対する"ある3つの軸による評価値"を示したに過ぎません。他にも数限りない色々な軸があり、色々な眺め方・受け止め方があるように思います。

 また、同じような作業であったとしても、その作業をする人によって、この空間での「座標」は異なってくることでしょう。それは、たとえば「梅宮辰夫の"釣り"」と「釣キチの"釣り"」が、その作業内容が同じようなのに、商品価値(黒い横軸)としては大きく違ってしまうようなことです。

 試しに、今の時点での「梅宮辰夫の"釣り"」を緑色の球で、「釣キチの"釣り"」を黄色の点で手作りプロットしてみました。もちろん、材料は色粘土と焼き鳥用の串です。


 そしてまた、時間軸に沿って、誰かが行う同じ作業でも、その位置・取り扱われ方が異なってくることもあるでしょう。10年後にも「梅宮辰夫の"釣り"」が今と同じ商品価値を持っているとは限りませんし、逆に、「あなたの知り合いの釣キチの"釣り"」の方が他人に満足を与えているかもしれません。あるいは、ゴッホが生きている時点では、ゴッホの"Art Work"は収入源とはとても言えなかったわけですが、現在では、ゴッホの絵画を見るために人が集まり、その絵画を手に入れるためにたくさんのお金が集まります。

 つまり、"誰かが行う何か"を示すこれらの点は、時間を経て動いていくのが普通だと思います。時代の変化にしたがって、何一つ違わない同じ"誰かが行う何か"なのに空間中を移動していって、商品価値を失ったりすることは、よくありそうに思われます。

 また、その人の技術の向上といったさまざまなことを理由にして、これらの焼き鳥の串に刺さった色粘土、・・・じゃなかった、その人の作業自体が変わり、この空間における位置づけを変えていくこともよくあることだと思います。

 先のことは、誰にもわかりません。「確か」でないことは、世の中に満ち溢れています。「この努力が報われる日が来るのだろうか?」「この釣り番組はいつまで続くのだろうか?」「(定年がある人であれば)定年の先には何があるんだろう」といったことをふと考えて、不安が沸いてくる人も多いことでしょう。

 そんなことを考えているうちに、"小説家になりたい"という言葉に強く頷く人もいれば、"それじゃ意味がわからないよ。どんな小説を書きたいのさ?"という風に感じる人もいるだろうな、というようなことが何故か頭の中に浮かんできました。そして、さらに「"Life Work"って何だろう?」「"Life"って何だろう?」と、今更ながらに思ったのでした。

 若き二ツ目が、さまざまな努力と工夫を重ねて暗中模索する姿を、私は美しいと見る。陽の当たらない場所で悪戦苦闘する二ツ目の中で、誰が将来の名手になるか。こればっかりは絶対にわからない。若くして天才ともてはやされた麒麟児が老いて駄馬になったり、ヘタクソの見本みたいだった人が五十代になって突然名人の域に飛躍したりする例が、落語家には少なくないからである。
   江國滋 「落語無学」

 そうそう、とりあえず一つだけ確実なことを見つけました。それは、「粘土遊びは楽しい」ということです。色鮮やかな粘土で、色んなものを作って遊ぶのは、とてもワクワクする、ということは「確か」なようです。

三次元記入例手作り三次元グラフ








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