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2009-07-08[n年前へ]

あなたの「掌(てのひら)の中」にあるもの 

 同じ文章を、違う本の中に見つけることはよくある。ある時は、同じような文脈で使われているし、また、ある時は少し違う例えとして使われていることもある。同じ文章が少し異なる使われ方をしているのに出合った時は、違う見方をひとつ知ったような気がして、少し豊かな心地になる。

加納朋子 「掌の中の小鳥 (創元推理文庫) 」から、「掌の中の小鳥」の寓話とそれにまつわる一節を引いた

(ひとりの子供が)「手の中に一羽の小鳥を隠し持って行って、賢者にこう言うんだ。『手の中の小鳥は生きているか、死んでいるか?』って。もし賢者が『生きている』と答えれば、子供は小鳥を握りつぶす。『死んでいる』と答えれば、小鳥は次の瞬間には空高く舞い上がるってわけさ。
 賢者はこう言ったんだ。『幼き者よ。答えは汝(なんじ)の手の中にある』ってね。
 あなたがどんな人間なのか、決めるのはあなた自身なのよ。

 この文章には、安本美典の「説得の文章術 」の中でも出会う。あるいは、この本が引用をした元になるゲーリー・スペンス「議論に絶対負けない法―全米ナンバーワン弁護士が書いた人生勝ち抜きのセオリー 」の中で、同じ寓話に出会う。

(ゲーリー・スペンスはこの寓話を法廷で話す)
 「おじいさん、鳥は生きているか、死んでいるか?」 少年はばかにするような口調で言った。
 すると、老人は思いやりのあふれる眼で少年を見て答えた。『鳥は「おまえの」の手の中にいるんだよ』
それから、私(ゲーリー・スペンス)は陪審員のほうを向いて言う。「ですから、皆さん、私の依頼人の命は皆さんの手の中にあるのです」

 加納朋子の「掌の中の小鳥 」とゲーリー・スペンスの言葉の「掌の中の小鳥」では、同じ寓話が、少し違う装いで登場している。前者では小鳥を掌の中に持つ人に光があてられ、後者では掌の中の小鳥にスポットライトがあてられている。

 もちろん、筋道を追いかけていけば、後者でも「掌の中の小鳥」を実感することで、=「掌の中の小鳥を自分ごと」として感じさせているのだから、結局のところは似たような意味合いにも、なりそうだ。

 しかし、少なくとも読んだ時には、同じ寓話から異なる価値が引き出されているような感覚を受ける。つまり、ひとつの寓話からいくつもの価値が引き出されたように感じる。そして、こんな時、やはり豊かな気持になるのである。

あなたの「掌(てのひら)の中」にあるもの








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