2004-10-25[n年前へ]
2004-11-23[n年前へ]
■手回し携帯電話充電・ラジオ・ライト
手回し発電でラジオを聞いたり、懐中電灯になったり、ほとんどの携帯電話をジュウン電することができる「手まわし充電たまごゴールド」 地震の後の必需品の一つ(いや、一つでなく三つか)でもあるし、一つ買っておくのも良いかも。
2004-12-30[n年前へ]
■インド洋の地震・津波
インド洋の地震・津波. 一昨年の今頃、米人の英語の先生(その後は化学を教えているらしい)がKrabi周辺のカヌーツアーに行ってきた。その話を聞いているうちになんだかとても行きたくなって、去年の夏に行ってみた。季節柄外海は波が荒くて、結局内海側で過ごした。先週は、プーケットまで行く時間もなくドタバタと過ごしていた。「波の穏やかな季節に」と思った先週も、結局時間が全然とれず、プーケットにも行くことができなかった。先週まででなく今週に、(時間ができて)去年いた場所に行っていたらダメだったんだろうな。
2005-01-04[n年前へ]
■「津波と人間」
新聞やテレビといった報道機関、あるいは、ネット上のさまざまなサイトでスマトラ沖地震に関する話をみる。「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というような言葉をよく見かける。来月の今頃は、そんな言葉をどのくらい見ることができるのだろうか。来年ならば、どうだろうか。再来年ならば、どうだろう。
1933年3月3日、三陸沖地震が起きた。3千人の命が消えたこの地震・津波の直後に寺田寅彦が雑誌に発表した文章が「津波と人間」だ。この文章中で、寺田寅彦は「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ、という論」を挙げた上で、「しかし、年月を経るうちに人はその災害を忘れ、世代も移り変わり、その教訓は容易には生かされないだろう」と書く。つまり、「地震・津波が次にやってくる時には、人は前回の教訓をすでに忘れている、だからこそ災害が繰り返し起きるのだろう」と書く。その寺田寅彦が繰り返し唱えた思想を、一言で言えば、「天災は忘れた頃に来る(天災は忘れた頃にやってくる)」ということになるのだろう。
「地震・津波に関する知識や予報・警告環境の整備によって災害を未然に防ぐ」というようなことは遙か昔から(寺田寅彦でさえ70年以上前だ)、何度も繰り返し言われたことだと思う。何度も繰り返し言われても、それは人はいつも忘れ続けるのかもしれない、と思う。「天災は忘れた頃に来る」という言葉、言い換えれば、「忘れなければ、天災は来ない」という言葉、は何度も繰り返し口に出されるべきだろうと思う。忘れさえしなければ、天災は来ないのだ。
しかし、その一方で「忘れる」ということは人にとって自然で、何かしら生きて発展していくための原動力であるだろうとも思う。数ヶ月先、あるいは例えば来年に、地震や津波のことなんて忘れ去られ、今回の被害地が同じように人で賑わっているとしたら、それもまたとても自然なのだろうと思う。人が忘れることが「自然」であるならば、人が忘れることにより生じる災害はやはり「人災」でなく「天災」なのかもしれない。だから、「天災は忘れた頃にやって来る」のだ。
2005-01-09[n年前へ]
■津波から逃げきれないときの対処法
ARTIFACT経由で「巨大津波と避難行動ー奥尻島青苗地区で何が起こったかー北海道南西沖地震調査報告(PDF)」を読む。これは「奥尻島で生存者に聞き取り調査」を行ったものだが、生存者たちの行動を自分の普段の行動・生活に置き換えて読んでみると良さそうだ。
ところで、第一に「とにかく津波が来たら高台へ避難する」のは当然だが、津波の危険を察知してから津波が来るまでの時間がほとんどない場合もあるだろう。そんな時は、「地面にしっかり固定されているものにしがみつき、(衝撃の強い)津波が通り過ぎるのを待つ」のが良い、という。
これは、アリューシャン津波に関する米国の報告や三好寿らによる「日本海中部地震での津波死者たちを検死した医師と助かった人たちへの聞き取り調査(1985)」から導き出されたものであり、「津波による最終死亡原因は体をコンクリートや岩などの固い地面に打ちつけられたことによる内臓破裂が多い」ため、「海岸で津波に追いつかれて逃げ切れないと判断したときには、自分から地面に伏せ、できれば固定した何か(鉄筋の先なぞ)につかまって、体の上を津波が通り過ぎるのを見送ることにより衝撃を緩和するのが生き残るのに有効である」とされている。少なくとも、日本の地理形状・地震発生状況を考えれば、日本では有効かつ知っておくべきことだと思われる。
「とにかく津波が来たら高台へ避難する」のは当たり前だが、「瞬時に訪れる津波から逃げ切れないとき」はどうするかの考察も風化させるべきではないだろう。