hirax.net::Keywords::「鴻上尚史」のブログ



2008-05-31[n年前へ]

鴻上尚史の「仕事の分類」「恋愛関係の分類」 

 鴻上尚史のドン・キホーテのピアス(668)に、俳優やミュージシャンになろうとする子供を応援する親が増えてきたことに驚きつつ、「きっちりした仕事」「浮き草のような仕事」や「実業」や「虚業」といった区別に意味のない時代になっていて、「やりたい仕事」「やりたくない仕事」くらいの区別しかできなくなっているのかもしれない、ということが書いてあった。

 もっと厳密に言うと、「やりたいけどやれない仕事」と「やれるけどやりたくない仕事」と「やりたくないけどやらなきゃいけない仕事」ということかな。
 おっ、まるで、恋愛関係みたいだ。
 鴻上尚史 ドン・キホーテのピアス(668)
 「「手作り三次元グラフ」と"Life Work"」や「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描く」で作った分類(黒色の横軸="他人の満足"という軸。あるいは、その"他人の満足"が形を変えた”お金”といったもの、青色の縦軸は"自分(本人)の欲求・満足"を示す軸、赤色の軸は"時間軸")に少し似ています。

 少し似てはいますが、鴻上尚史の分類には上のような分類とは決定的に違う・それはまさに決定的な軸がひとつ入っています。それは「やれるけれどやりたくない」と「やりたくないけどやらなきゃいけない」の間で迷い・決定するという「選択肢・意思」です。その選択や意思の軸が、鴻上尚史の分類では明確に描かれています。
 私が描いた三次元図では、もしも人がこの三次元中を移動していくように見る場合には、その人が(その人の仕事が)動く軌跡の過程の中にその選択肢が含まれているというわけです。

 俳優とかバンドマンどか、表現にかかわる仕事の多くは、「失業が前提」の職業になります。……「やりたくてやれる俳優の仕事」が来る日まで、「やれるけどやりたくない俳優の仕事」をするかどうか迷いながら、(「やれるけどやりたくない俳優の仕事」をするくらいなら、レストランのバイトなんかの)「やりたくないけどやらなきゃいけない他の仕事」で生き延びるのです。
 鴻上尚史 ドン・キホーテのピアス(668)
 ふと、私が描いた「自分の満足軸」と「他人の満足軸」が一致してしまったりすると、あるいは、その区別ができなくなってしまうと、「自分自身の満足」というものは得られない・見えなくなってしまうのかもしれない、と思う。
 この資本主義社会に生きている限り、商品とは、他人の欲望を具体化したものです。自分が作りたいだけでは、それは商品とはなりません。それが、他人が欲望するものとなって初めて商品となるのです。
   鴻上尚史「名セリフ!」文藝春秋社
 …問題がひとつだけあるとすると、優秀なセールスマンほど他人の欲望をまず一番に考え続ける結果、自分の欲望がわからなくなることです。いったい、自分は何がしたいのか、自分の人生の意味は何なのか、全くわからなくなるのです。
   鴻上尚史「名セリフ!」文藝春秋社

2008-07-19[n年前へ]

「肯定を書く長文」と「セクスィー部長」 

 だって、みんな否定にうんざりして、じつは、肯定をずっと求めているんですから。

鴻上尚史
 いいんだよ。

セクスィー部長

2008-11-28[n年前へ]

「大切なことはとてもシンプルだ」 

 ドン・キホーテのピアス693 鴻上尚史 「大切なことはとてもシンプルだ」

 毎日、1時から9時までの稽古で、生活も不安定ですからバイトをしなければいけない奴もいて、ヘトヘトになってしまうのですが、それでも、毎日、ちゃんと次のことを考えて、次の日の課題を疲れと眠気に負けずにやってきた人間だけが、次のステップに行けるのです。
 それは、「目の覚めるような演技をした」とか「才能溢れる完璧な演技」ということとまったくかけ離れています。
 当たり前のことを当たり前にする、それだけのことなのです。
 演劇とダンスの神様に愛された人間が、そんなにたくさんいるわけがないのです。そんな人は、50年に1人でしょう。
 それよりも、踊り・練習し続ける体力とプレッシャーに負けない人柄を持つ人間が生き残るのです。
 この映画を見ていると、才能とは、夢を見続ける力のことだと、ようくわかるのです。

2009-01-14[n年前へ]

「東大安田講堂事件」と「劇作家」 

 1968年に起きた「東大安田講堂事件」を読んで、ふと鴻上尚史の「ヘルメットをかぶった君に会いたい」 を連想した。答えがない問いを前にして、その問いを振り払うことができない感じというか、トイレに行ったはずなのに残尿感が強く残り続けている夢の中のような、そんな面持ちになった。

 そして、さらに、井上ひさしが「死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集〈8〉 (中公文庫)」に書いたこんな文章を思い起こした。

 "わたしには"<現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか>という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を並べて繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。

井上ひさし 「野田秀樹の三大技法

 もしかしたら、野田秀樹に限らずとも、ほとんどの作家が作るものは、そんなものが多いのではないだろうか。少なくとも、鴻上尚史が書く戯曲はまさにそのようなものだ。世界を映し出す舞台、そんな世界の中でどう生きるか、どう立ち続けるか、そんなことをずっと書き続けているように思う。・・・そういうものを書く劇作者は、たぶん、とても多い。

 どうも作者というものは、自分のために薬を調合する人種のようである。

井上ひさし 「死ぬのがこわくなくなる薬

2009-02-02[n年前へ]

「一人の人間を救うためには、何が必要かわかる?」 

 劇作家である鴻上尚史の演劇(の戯曲=シナリオ)「トランス 」の中にこんな言葉があります。

「一人の人間を救うためには、何が必要かわかる?」
「何?」
「もう一人の人生よ」

 この文中の「救う」というものがどのようなものであるか、あるいは、そんな言葉を使いたくなる状況というものは人の数だけ数限りなくあると思います。

 ただ、この言葉、一人の人間を救おうと思うなら、他の人を救うことはできないし、その他の人の中には自分も入っている、という言葉は正確すぎるほどに的確な言葉かもしれない、と思います。



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