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2007-11-30[n年前へ]

「美味しい食べもの」を表現する技術 

 色んな小説や随筆などの中に登場する「おいしさ表現」を集めた「おいしさの表現辞典(東京堂出版)」を読んでいると、目の前にベルトコンベアがあって、その大通りの上を「信じられないほど美味しい食べもの」が次々と行進していくような気になる。一言でいえば、「ものすごく食べたくなるのに、見てるだけ」状態になる。この本には、そんな「目の前に料理があるかのように感じる」文章が詰まってる。

 祖母に、お焦げを作ってくれたどうか尋ねる。 「パリパリいってから七つ数えたから大丈夫だよ」
 かまどで、硬いマキで鉄の釜で炊くご飯。しかもアツアツのおこげで握るおにぎりである。
向田邦子「父の詫び状」

 文章に限らず、絵画や写真や演劇や歌といったものには、つまり、ありとあらゆる表現技術には、きっと同じ基本があるのだろう。対象物を観察して、その対象物をよく感じた上で、何を濾過して強調するか決め、そしてそれを描く、そんな原理があるのかもしれない。

 湯気は人の心をほのぼのと温かくする。
東海林さだお「タクアンの丸かじり」

 本物よりも美味しそうな食べ物の写真。見たことのない料理だけれど、なぜか食欲をそそられる絵画の中の料理。実際に聞く調理の音より、生き生きと音が弾けて聞こえる映画の中の厨房シーン。そういうものを作る人たちは、どういう目や耳で料理を感じているんだろうか。

 両眼はきらきらとかがやき、颯爽として蕎麦をあげ、蕎麦を洗う。
池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」

 そして、美味しそうに食べものを表現し尽くす人たちは、どんな風に食べものを味わうんだろう。きっと、美味しさで脳波計の針が振り切れるくらい、ADコンバータで桁あふれが起きるくらい、その美味しさを味わうんだろう。その美味しさの片鱗から生まれた表現さえ、こんなに美味しそうなんだから。

 コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。
村上春樹「ノルウェイの森」

名作映画の料理レシピ映画の中の料理 料理と天文学イタリア料理の定番、カルパッチョは画家の名前






2008-04-23[n年前へ]

「統計はビキニ水着」で「説明文は(ミニ)スカート」の法則 

 説明文の長さに関し、実に的確なアドバイスの一つが「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉だと思う。

Sentence length is like a girl's skirt: the shorter the better, but it should cover the most important parts.
 (文の長さは女性のミニ・スカートのようなもので、短ければ短いほど良い。しかし、最も大切な部分はカバーしていなければならない)

 ミシガン・メソッド(ミシガン大学で開発された言語教習の流儀)から広まった伝えられているこの言葉は、まさに必要十分な「長さ」の「説明文」である。


 この「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉と良く似た表現を使って、「統計」というものをこれまた上手く現したものがある。それはこんな言葉だ。

“Statistics are like a bikini. What they reveal is suggestive, but what they conceal is vital.”
(統計というものは、女性のビキニ水着と同じだ。実に思わせぶりで意味ありげな魅力的なものがさらけ出されているがように見える。しかし、肝心な部分は隠されている)

  Aaron Levenstein

 しかし、考えてみればこの「統計はビキニ水着」「説明文は(ミニ)スカート」といった表現は、結構何にでも使うことができるものかもしれない。
 「必要十分」が望ましいものに対しては、それがどんなものであっても「○×は(ミニ)スカートだ。長すぎても短すぎてもダメだ」と言うことができるだろう。
 また、多くの商品・技術…つまりはほとんど全てのものが「○×はビキニ水着のようなものだ。…」という風に言うことができそうだ。たとえば、"Ruby on Railsはビキニ水着のようなものだ、なぜなら…" "ダイナミックリコンフィギュアラブル技術はビキニ水着のようなものだ、なぜなら…"という具合である。
 実は、「ビキニ水着」でないものの方が少なかったりするのかもしれない。

「説明は(ミニ)スカート」ビキニ水着






2009-04-13[n年前へ]

「表現」と「矛盾」 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 そりゃあどんどん矛盾していくよね、と、甲斐さんは言った。…
 でも、と言って、甲斐さんは私の顔を見た。「でも、表現するということはそういうことでしょう?イメージをある程度限りある形で強く打ち出していく、というのが表現ななんだから」
 あまりにも正しかったので、私はちょっと黙ってしまう。

「アンビヴァレンスのひと――――甲斐よしひろさん」

2009-04-20[n年前へ]

「あなた」に薦めたい「しりあがり寿のマンガ入門」と「山田ズーニーのおとなの小論文教室。」 

 心の中に「何かはわからないけれど、何かをしたい」という気持ちををうっすら抱えている人、「何かをしたいけれど、どうしていったらいいのかよくわからない」という悩みを抱えているひと、「今のままで、このままで、本当にいいのだろうか」と考える時があるひと、そんな「あなた」に心から読んで欲しい・薦めてみたいと思うのが、しりあがり寿の「表現したい人のためのマンガ入門 」と山田ズーニーの「おとなの小論文教室。(1)~(3)」です。これらの本の中には、タイトルからはわかりづらい、素晴らしい内容が詰まっています。

 しかし自分には決定的な問題点がありました。「やりたいもの」がハッキリしないのです

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 しりあがり寿の「マンガ入門」が私たちに教えてくれることは決して「マンガの描き方」ではありません。そして、山田ズーニーの「おとなの小論文教室。」が私たちに伝えようとしていることも、「小論文の書き方」ではないのです。

 「表現したい人のためのマンガ入門」と「おとなの小論文教室。」に書かれていることを、それをひとことで言えば、雑な表現であることを覚悟の上で一文で書けば、それは「生きていくためのコツ」「自分の活かし(生かし)方」を教えてくれる本・文章です。「自分」を知り、自分以外の世界を知り、そして、その世界の中での自分を見失わず歩いて行くためのアドバイス、が繰り返し書かれています。

 自分がいま、この手で紡ぎだせないものを、自分にはちゃんとイメージする力がある。
 それが、未知で・独特で・自分で作り出すしかないから、こんなに駆り立てられるのだろう。自分で作らなければ「無い」ものだから絶望するのだろう。

山田ズーニー
「17歳は2回くる おとなの小論文教室。(3)」
 山田ズーニーは、痛々しいほど真摯にとても力強く、かつひどく繊細な言葉を重ねて。そして、しりあがり寿は、非常に論理的でいて、それでいて限りなく自然なバランスで気楽な書き方で。二人のスタイルは180°ほどに異なっているように見えても、二人が書いたこれらの本は、いずれもが同じ「自分の可能性・潜在力を見つけること」「自分を表現する・活かすこと」「他の人に伝え・繋がること」、それは一体どういうことなのかということを教えてくれます。
 人間はもともと、何かのために生まれるものではありません。何かの職業につくとか、何かの使命を果たすとか、生まれながらにして決まっていることは何もない。ただし、あえて生まれてきた目的はといえば、生まれたこの世界に受け入れられること、それ自体じゃないでしょうか。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

 それにしても、しりあがり寿のバランス感覚には驚かされます。不思議に敏感な感性と、データに裏付けされた論理と予測、そして、それらをまとめる絶妙なバランス感覚は、男性の私から見るとある意味で理想の大人に思えます。

 読者に見捨てられると食えないから、でもとりこまれると自分を見失うから、読者とつながる小指一本に力をこめます。
 自分のどこが悪いか考えることがあります。直さなきゃいけないところから順に並べたりして、でも面倒くさくなって、ほうってしまいます。
 いろいろ書いてきたけれど、…必要なのは、馬が走るように、犬が吠えるように、人が祈るように、ひとコマひとコマ、1ページ1ページ、まるで息をするようにマンガを描き続けること。ただそれだけかもしれません。

しりあがり寿 「表現したい人のためのマンガ入門」

2009-05-10[n年前へ]

可能性は悩みで、悩みは可能性だ。 

 山田ズーニーの「おとなの小論文教室。」は、これまでに三冊出ている。以前書いたように、私はこの本は、「小論文教室」という名前では良くないと感じている。そういう本・内容ではないと思っている。そういうものとは違う、けれどとても素晴らしいものが詰まっているシリーズだ。
 だから、タイトルが別に付いている2巻目・三巻目とは違い、「おとなの小論文教室。」という名前の一巻目はとてももったいない、といつも感じてしまう。

 (一巻目について)この本は本当に良かった。けれど、タイトルは、本当に良くない。少なくとも、この本のタイトルは、この本の内容の素晴らしさを表していない。私がこの本の中から読み取ったことは、「自分を見つけ出す」ということだ。

「おとなの小論文教室。」(inside out 2006/05/15)

 「おとなの小論文教室。」の三巻目には、的確でいて印象的な名前が付けられている。その「17歳は2回くる 」の冒頭に書かれている「はじめに」を抜粋した文章が以下になる。

悩みは可能性だ。
若い人は悩む。
でも、「自分はこれからだ」と思っているおとなは、もっと悩む。
「自分はこれからがおもしろい」と想っている、すべての人に本書を捧げる。

山田ズーニー

 このタイトルの「17歳」は思春期=思い悩む時期で、17歳(年)は、14歳であっても15歳であってもかまわないし、2回であっても3回でも4回でも構わない。とにかく、思春期=思い悩む時期は何度かくる。そんな人たちに「足を進めるには悩む。けれど、そうすることができる力があなたにはある」と力をこめて伝えるこの本は、時折読み直してみるのにとてもいい。



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