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2000-07-15[n年前へ]

外の世界を眺めてみれば 

ビデオ入力を活用しよう


 先日、トランジスタ技術の2000/07号を読み直していた。読み直していたのは「色センサー」の記事である。有限会社レンテックが視覚障害者用の製品として発売しているものである。PICをよく使う人だったら、この記事を読んでいなかったとしても、多分よく知っている話だと思う。何しろ昨年の「第三回PICmicroデザイン・コンテスト」で優勝した作品だからである。PICと音声ICの数多い制限と、測定上の制限の中で、「(使用用途を考えた上での)安定した色名決定」を行うルーチンがとても苦労していて、読んでいてとても面白い。

 個人的には、この「第三回PICmicroデザイン・コンテスト」で入賞している「マルチ・チャンネル分光器」と

みたいなものを組み合わせて、「5000円でできるパーソナル・マルチ・チャンネル分光器」なんてものを作ってみたいと思っているのだけれど、こちらはなかなか作業が進んでいない。

 それはさておき、この「色センサー」のように、持ち歩いて色々なところですぐに調べることのできる測定器というのはとても便利なものだ。そして何より、それを作っている側からしても面白いものである。そこで、私も試しに作ってみることにした。といっても、計測器を作り出すと仕事と区別がつかなくなってしまうので、ハード的に作業をするのは気分が全然のらない。そこで、PCに接続されているビデオカメラを用いて、ソフト的に作ってみることにした。やってみたことは、以前作成した「色覚モドキソフト」を、ビデオカメラからのリアルタイム入力用に作ってみただけである。

 以前

ではインターネット上にある画像ファイルに対して、画像処理をかける「色覚モドキソフト」を作ってみた。コンピュータにネットワーク上のものが見える「色覚」を持たせて、ネットワーク上の画像について考えてみたわけだ。そして、ではそれを自分のPCの中にある画像ファイルをいじるようにしてみた。つまり、コンピュータに自分の中のものが見える「色覚」を持たせて、自分の中を覗いてみたのである。

 そして、今回はPCに接続されているビデオカメラを用いて、コンピュータに現実社会を眺める「色覚」を持たせてみることにしたのである。そんな現実社会を眺めることができて個性を持つコンピュータを通して、現実社会を眺めてみたいと思うわけだ。

 最近の持ち歩き用の小型ノートPCにはビデオカメラが取り付けられているものが多い。例えば、こんな感じだ。
 

手軽なノートPCにビデオカメラが取り付けられたもの
あるいは取り付けられるもの
SONY PCG-C1XG
Casio E-50x
Libretto ff1100V
SCOOPY

 私もCasioのPalm-sizePCは使っているし、ノートPCにもUSB接続のビデオキャプチャーを取り付けている。こういう持ち歩けるPCに取り付けてあるビデオカメラを活用しないのは勿体ない、というわけで、以前作った

を改造し、で作ったtruecolorを合体させて、ちょこちょこっと作ってみたのがこれだ。 これを使うと、「色覚」に個性を持つコンピュータを通して、現実社会を眺めてみることができる。あるいは、できた気に少しはなれる。

 例えば、次の画面はTVで放映している「ターミネーター」を見ているところである。一番左の画面がコンピュータのビデオカメラに写っているそのままの画面だ。そして、真ん中がリアルタイムに色調変換をかけている画面である。つまりは、「色覚に個性を持つ」コンピュータが眺めている「ターミネーター」である。また、一番右はシャッターを押したときに取り込まれた静止画像である。
 

truecolor5.exeの動作画面
これはターミネーターを眺めているところ

 くれぐれも勘違いしないで欲しいのだが、上の一番左の画面で「赤い」部分が、真ん中の色調変換をかけた後では緑っぽく見えているからといって、このコンピュータがそこを「緑」と認識しているわけではない。あなたが、この真ん中の画面を見て何かを解釈しようとした瞬間に、それはコンピュータの感覚に加えてあなたの感覚が混入してしまうのである。もし、それでもそう考えたくなる人がいれば、そもそも「赤」とか「緑」という言葉はどういう意味なのかを考えてみると良い、と思う。

 また、今回のL,M,S(これは具体的な何かを指すわけではないので、この意味についてはあえてここでは説明しない)の各スライダーの感度パーセンテージを以前のような0〜100%ではなくて、0〜200%の範囲で動かせるようにしてみた。もし、あなたのPCのモニタがこのLに対応するところが弱くなりがちならば、このLのスライダーをいじってやって、Lに関する情報を増幅してやることができる、と考える人もいるだろう。といっても、いじってみるとわかると思うが、そもそもモニタの出力可能な限界と画像フォーマット上の限界があるわけで、なかなかそういうわけにはいかない。ただ、色々と実験してみるのには面白いかもしれない。

 ちなみに、次の画面は「週間アスキー」の広告を眺めている画面だ。おやおや、この広告はこのコンピュータには今ひとつアピールしないようだ。
 

「週間アスキー」の広告

 さて、先ほど

そもそも「赤」とか「緑」という言葉はどういう意味なのかを考えてみると良い、と思う。
とあっさり書いたが、「言葉」とか、「現実」とか、あるいは「感覚」といったものはすこしづつ重なり合ってはいるけれど、それは一致し得ないものだと私は思っている。まして、それらは一人の人の中で完結できるものでもないし、同時に万人にとって同じでもない。以前書いた「クジラは哺乳類か魚か?」とかと同じで、心底考えてみることに意味があるんじゃないか、と思ってたりするのだ。

2000-07-23[n年前へ]

WEBページの文体を調べてみよう 

「ノリノリ文体」の秘密!?

今日もまたいつものように

へ面白い情報を読みに行った。何しろ、私はあまり眺めるWEBページを新規開拓したりしないので、こういうページ無しには情報の孤島に取り残されてしまうのである。

 すると、

というスレッドが紹介されていた。これはなかなか面白い試みだ。

 以前から、私も文体について調べてみたい、と思っていた。それも普通の文体ではなくて、WEBページの文体である。色々な面白いWEBページを読むたびに、「この面白さ・ノリの良さの秘密はどこにあるのだ?」と思っていたのである。そして、できることならば「そのノリノリ文体の秘密をこの目で見てみたい!」と切望さえしていたのである。もちろん、本当のところは「ノリノリ文体の秘密」が明らかになったならば、「そのノリノリ文体をパクッてやろう」という気持ちが私の中にあるのだ。文体だけ真似しても、「面白いページ」にはならないと言う気もするが、そんなことは考えてみてもしょうがないのだ。まずは、形から入ろうというわけだ。

 そこで、今回は「ノリノリ文体」を書いているWEBサイトの文章をいくつかピックアップして、その「ノリノリ文体の秘密」を調べてみることにした。今回、ピックアップした文章はまず次の三つである。

  • そりを言ってはお終いなのよ fromちゃろん日記(仮) ななゑ さん
    • ( http://www.alpha.dti2.ne.jp/~nanae/nikki1999_8m.htm )
  • 娘よ from 我が妻との闘争呉エイジ さん
    • ( http://www.117.ne.jp/~kure/waga/yome12.html )
  • 半角カナを使え! fromとろん 南野 輝 さん
    • ( http://www2.justnet.ne.jp/~chic/TRON005.HTML )
 ちゃろん日記(仮)はWEBページの文体を考えるときには絶対に外せないだろう。笑いと涙で日常を描くまるでチャップリンの喜劇のような「ちゃろん文体」である。今回は数多い話の中から「男心と女心のギャップ」を鋭く描いた「そりを言ってはお終いなのよ」に注目してみた。

 そして、次に「男心と女心のギャップ」を全く違う視点から描く、まさに涙ナミダの物語「我が妻との闘争」から涙無しには読めない「娘よ」にも注目したい。

 涙でなくて「笑い」と言えば、当然「お笑いパソコン日誌」から辿り、「半角カナを使え!」にも注目してみたい。本当はこの作者が文章を書いている印刷物も手元にあるので、その印刷物とWEBの文章とを比較してみたかったりもしたのだが、今回はパスさせて頂いた。

 そして、WEBページの文章ではないが、当然この人

  • 私の個人主義 夏目漱石
もノミネートしてみた。漱石には失礼だと思うのだが、素晴らしい文章ではあるが、WEBページというものがない時代のまだ「ノリノリ」でない例として用いてみたい。そして最後に、本hirax.netの中の文章を二つ程選び、「ノリノリ文体」になっていないWEBページの文章例として用いることにした。なお、この二つは数式などをなるべく用いていないものという観点で選んでみた。

 さて、今回は「文体の特徴の解析」の手段として、「文章構造可視化シリーズ」で作成した"wordfreq"を少し改造して使ってみることにした。以前、のバージョンから少し変えて、ファイルに落とす結果はスムージングをかけないそのままの結果にしてみただけである。とりあえず、そんな"wordfreq"を使い、WEBページの「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」を調べてみたのである。

 何故、「一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数」に注目したかというと、私はどうも読点の使い方が判らないのだ。文章の各部分が他のどの部分にかかるのかをちゃんと示したいのだが、どうも私の文章は変なのだ。もういっそのこと、文章の各部分がどこにかかるかわかるように各個とか矢印とか使いたくなるくらい、読点の使い方がわからないのである。その結果、読点をどうも多く打ってしまうような気がしているのである。

 そこで、その勉強も兼ねて「一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数」に注目しながら、WEBページの「ノリノリ文体」を調べてみたいと思うわけだ。
 

一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数
ノミネートされた文章一段落中の句点( 。)の数一段落中の読点( 、)の数
私の個人主義
7.6
11
コンクリートの隙間に
4.4
7.6
新宿駅は電気羊の夢を見るか
3.9
2.8
半角カナを使え!
1.8
2.1
娘よ
1.4
0.5
そりを言ってはお終いなのよ
0.4
0.9

 この結果を見てみると、「ちゃろん文体」などは圧倒的に一段落中の句点(。)の数が少ない。また、同じように一段落中の読点( 、)の数も少ない。そして、「我妻文体」も同じように、一段落中の句点(。)の数が少ない。こちらの「我妻文体」は、一段落中の読点( 、)の数の少なさでは今回No.1である。

 それに対して、偉大なる漱石の「私の個人主義」では「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」も実に多い。そして、私の書いた文章においても、その数はやはり多い。上の表は「一段落中の句点(。)の数」が多い順に並べてみたが、私の文章は二つとも、漱石の次に「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」が多い。

 上の表では
私の個人主義 >> コンクリートの隙間に, 新宿駅は電気羊の夢を見るか >>半角カナを使え!, 娘よ >> そりを言ってはお終いなのよ
となっているが、これはWEBの「ノリノリ文体」とかなり良い一致をするのではないだろうか?つまり、

  • WEBの「ノリノリ文体」は一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数が少ない程良い
という推定がここから可能だと思うのだ。

 その推定を用いて「娘よ」の文章中における一段落中の読点( 、)の数の変化を眺めてみると面白いことが判る。文章中で、段々と「一段落中の読点(、)の数」が少なくなってきているのである。これは、きっと作者 呉氏が文章を書いている内に、気分が「ノリノリ」になってきて、その心の変化が「ノリノリ文体」としての特徴- 一段落中の読点( 、)の数が少ない - を示し始めたのではないだろうか?
 

「娘よ」の文章中における一段落中の読点( 、)の数の変化

 さて、今回はWEBページの「ノリノリ文体の秘密」を簡単に調べてみた。これからも引き続き、その秘密のさらなる姿を見てみたいと思う。そして、いつかその「ノリノリ文体」を私は身につけ、ノリノリWEBページなどを書いてみたりするのである。

 とはいえ、それぞれの「文体」には作者の性格も強く現れているわけで、私の性格を直さないことにはそんな「ノリノリ」文体を身につけられないような気もするし、文体だけ真似しても「面白いページ」にはならないとか、形から入ってどうするとかいう声が聞こえそうであるが、それを言ってはダメなのだ。
 

2000-08-24[n年前へ]

スクール水着の秘密 

腹の部分のデカイ穴 流体力学入門編2

 先日、「とあること」を知って、とてもビックリした。とてもびっくりしたあまり、「男と女の人の間には知らないことがいっぱいあって、そこには深くて暗〜い河が流れているんだなぁ。」とシミジミと考え込んでしまったくらいである。いや、誇張でなくて本当にそう思ったのである。

 今回出てくる話を私のように知らない人がいたならば、もしそれが男性であれば私のようにビックリして哲学的なことを考えてしまうだろう。そして、それがもしも女性であれば「自分が常識だと思っていたささいなこと」を知った男性が「どれほど驚愕するか」を知れば、やはり同じようにビックリするに違いない。私はこの「とあることから始まる真夏の哲学をぜひ多数の人に知って頂きたい」と思い、筆をとることにした次第である。

 一体、その「とあること」が何かと言うと、それは「女の子のスクール水着のお腹部分は実はセパレートになっていて、大きな穴が開いている」ということである。一応、簡単な絵を示しておこう。
 

スクール水着の概観図(多分)

 といっても、私が詳しく知っているわけはないので、もっと詳しいことは、

から辿って、を見ると判りやすいハズである。知らない男性はみなビックリすることだろう。子供の頃、女子が着ているスクール水着はワンピースだと疑いもせずに思いこんでいたが、どうやら(ものによっては)違ったらしい。少なくともお腹のあたりはセパレートだったのである。お腹のあたりに限って言うならば、スクール水着はビキニみたいなものだったのである。手が何本も入るような穴があったのである。いやぁ、ビックリした。

 何故、そこに「スクール水着の謎」の中で、

 あそこの部分は”前垂れ(まえだれ)”って言うんだよ 。あのね、あの前垂れはね、泳いでいる時に胸の谷間から入った水を泳いでいる方向から観て後方に 排出する為に有るの、あれが無いと胸の谷間から入った水が水着の中に溜まっちゃうのよ。 だから簡単に言うと前垂れは、排水口みたいな物なの。
という風に簡潔に説明されている。そう言われてみれば、そういうものなのかもしれない。しかし、ビックリである。ちょっと本当に驚いて、そして少し感動までしてしまった私は「スクール水着の前垂れ部分の水流の様子」を今回解析してみることにしたのである。

 まずは、こんな感じで泳いでいる女性がいたとしよう。
 

泳いでいる女性

 この画像では水着が見えないかもしれないが、この女性は当然水着を着ている。「心の清らかな人」にはちゃんと水着が見えるハズである。「邪な心の人」には水着が見えないかもしれないが、それは心に煩悩を抱えているせいである。ぜひ、悔い改めて欲しいと思う。まして、「コイツPoserの使い方が判らないんだろう?」などという言うような輩(ヤカラ)はもってのほかだ。

 さて、この下の画像のように女性の胸の辺りの水流を解析してみることにしよう。注目する領域はすなわち赤い線で囲んだ部分である。
 

女性の胸の辺りの水流を解析してみる

 上の画像で胸を消してあることが判るだろう。それは今回の解析は胸の谷間から水着の中に入っていく水流の解析をする、つまり胴体の中央部での水流の解析をするからである。胴体の中央部にバストがついている女性はそうそういないだろう。

 さて、その部分の拡大図を次に示そう。スクール水着に前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合、次の図のような感じで胸と水着の間にスペースができてしまう。
 

前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合

 一方、スクール水着に前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合、次の図のようになる。胸と水着の間にスペースができることは同じであるが、そのスペースから水が排出されていく経路があるわけである。
 

前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合

 さて、今回の流体解析も

の時と同じく、Nast2Dを適当に改造して簡単に解析を行ってみた。今回はReynolds数は100で計算してみたが、次に計算するときにはReynolds数の妥当な値を考慮してやってみたいと思う。残念ながら、今回は本当に適当に計算をしてみただけである。まぁ、最初の試しだからそんなものだ。

 まずは「前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合」の水流の速度分布の計算結果を下に示してみよう。
 

水流の速度分布
( 前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合 )

 胸の谷間に水がたまったスペースの後ろ部分の水流がずいぶんと速くなっていることがわかるだろう。当然のごとく、胸の谷間に水がたまった部分では水は滞留してしまっている。

 一方、「前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合」が次の図である。
 

水流の速度分布
( 前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合 )

 胸の谷間を水がジェット気流のように速く抜けていくことがわかる。割にどの領域でも、水流の速度分布は割に等しくなっている。

 次に圧力分布と水流の速度分布を重ねてみたものを示してみよう。まずは、「前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合」である。
 

試しに計算してみた圧力分布と水流の速度分布
( 前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合 )

 胸の谷間に水がたまっている部分は圧力が高いが、その外側の部分は圧力が低くなっていることがわかるだろう。
 
 この圧力差により、次の図のような力が働いてしまう。
 

試しに計算してみた圧力分布と水流の速度分布
( 前垂れがなくて、水着の中に入った水の逃げ場がない場合 )

 こんな力が働いてしまうと、速く泳ぐ邪魔にもなってしまう。また、この力が大きくなると水着の締め付ける力を上回ってしまうだろうから、ますます水がたまるスペースが大きくなったり(つまり胸のスペースが広がってしまったり)、さらには水着を脱がす方向に働いてしまうことだろう(それはそれで良いぞ、という声も聞こえてきそうであるが)。

 一方、「前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合」は次の図のような感じである。
 

試しに計算してみた圧力分布と水流の速度分布
( 前垂れがあって、水着の中に入った水の逃げ場がある場合 )

 圧力の不均衡もそんなに発生していないことが判るだろう。これなら速く泳ぐ邪魔にもならないし、水着もちゃんと体にフィットしたままである。

 このように、スクール水着に隠された「前垂れ」は実に役に立っていることが流体解析からも判るわけだ。いやぁ、本当にビックリだ。
 

 さて、私の周りの男性はやはりみな「スクール水着の秘密=前垂れ」を知らなかった。

「腹の部分にデカイ穴〜!? はぁ? スクール水着にそんなものあるわけないじゃないの。」
「オマエ、変な妄想でも見たんじゃないの〜」
とみな口を揃えて言うのである。もう、誰一人として素直に信じる人はいないのである。しかもこともあろうに、私をヘンタイ扱いまでするのである。いつの時代も真実を伝える者は受難の運命が待っているのである。実に嘆かわしいことである。

 しかし、それが「スクール水着の真実」を知ってしまった後は、どの人も

「えぇ〜!! 昔の俺達にそれを教えてやりたい〜!!」
「誰一人としてそんなこと教えてくれなかったぞぉ〜」
「俺達の青春を返せ!って気分になるなぁ〜」
と驚きのあまり興奮してしまうのである。しかも、みんな
「もっと早く教えてくれよぉ〜」
というニュアンスがアリアリと感じられるのである。さっきまで人をヘンタイ扱いしていたくせに、コロッと変わりすぎである。

 しかし、女性陣はと言えば、

「あぁ〜そう言えば、そんな風になってたような〜。」
「あそこの穴から空気を入れて遊んだ〜。」
「えぇ〜、知らないのぉ〜」
と実に淡々としたものなのである。男心を全然判っていないのだ。その証拠に、
「それにしても、何でそんなに驚くのか全然判りませ〜ん。」
と言う人までいるのである。「そりゃ、驚くぞ」と男なら判るはずなのだが、それが女性にはどうも伝わらないのだ。

 そういうわけで、「スクール水着の秘密」を通して私は「男と女の間の常識・意識のギャップ」を本当に真剣に考えさせられたのである。そのショックの余韻は今もまだ醒めやらぬままだが、とりあえず今回はここまでで終わりにしたい。

 あぁそれにしても、中学生の私に「スクール水着をじっくり見ろ」と一言だけでも教えてやりたい...
 

2001-12-18[n年前へ]

特殊フォーマット出力用プラグイン作成 

 AsciiArt出力プログラムを改造して、仕事で使える特殊フォーマット出力用Photoshopプラグイン作成。

2002-09-18[n年前へ]

銀玉鉄砲を撃ちまくれ。(前編) 

銀玉鉄砲の弾道計算


  世の中には「似て非なるモノ」が溢れている。一見同じように見えるのに、よく見ると何故だか大違いというものである。そしてまた、その「似て非なるモノ」の亜種として「言葉の上ではよく似ていて、実際のところもやっっぱりよく似ているのに、世間一般での印象が全く異なるモノ」というのが数多くある。

 その一例が、「月光仮面」と「けっこう仮面だ。月光仮面は「月よりの使者」をキャッチフレーズにする正義の味方で、けっこう仮面は「愛と正義の使者」をキャッチフレーズにするやはり正義の味方だ。二人ともマスクをかぶった正義の味方だし、そのキャッチフレーズだって互いによく似ているのに、世間一般の印象は大違いなのである。「昔、私は月光仮面に憧れていてね~」と遠い目で語る男を優しく見守る女性はいるかもしれないが、「なんてったって、も~、オレはけっこう仮面が好きで好きで~」と呟く男を優しく見守る女性はいるわけはないのである。同じように思い出を語っているのに、そしてその響きもほとんど同じなのに、世間の印象というのは全然違うモノなのである。「月光仮面」と「けっこう仮面」は「似て非なるモノ」なのだ。

 そして、よく似た「似て非なるモノ」がもう一つある。それは銀玉と金玉である。両者ともに「金銀銅」というフレーズで並び称される「貴金属の名」に「宝石を意味する玉」が付け加えられたものであり、ギンダマという響きとキンタマという響きだってそっくりであるのに、その響きを人前で発っした場合の印象は180度違うのである。いや、実際のところはギンダマと口から発することはできたとしても、キンタマなんて口から言葉を出すことは普通一般的にはできないのである。口に出すだけでなくて、例えば恋人を部屋に呼んで、昔のおもちゃ箱を開けながら「ホラ、オレの銀玉鉄砲ー、懐かしいだろー」なんて見せびらかせば、「まだコドモみたいー、可愛いー」となるかもしれない。ところが、同じように恋人を部屋に呼んでも、「ホラ、オレの金玉鉄砲ー、スゴイだろー」なんてキンタマテッポーを見せびらかした日には、これはもう一体どうなることかわかったものではないのである。その響きも、そしてそのピストルとしての役割も、銀玉鉄砲と金玉鉄砲はよく似てはいても、その二つはやはり「似て非なるモノ」なのである。
 

 そんな「似て非なるモノ」の片割れの「銀玉鉄砲」、生まれてはや50年ほどになる銀玉鉄砲を、昨日散歩の途中に買ってしまった。街中を歩いていると、古びたオモチャ屋が人知れずあって、その店に気づいたワタシはついつい足を踏み入れてしまったのである。そして、その店の中で棚の下の段ボールに入っていた銀玉鉄砲を見かけたワタシは、思わず銀玉鉄砲一セットを買ってしまったのである。銀玉鉄砲150円+玉100円のしめて250円ナリであった。玉は残念ながら銀玉ではなくて、BB弾だったのだけれども、少なくとも安っぽい銀玉鉄砲の方は昔と同じ見てくれだった。
 

 「銀玉鉄砲の昔」で思い出すことといえば、子供の頃に遊んだ銀玉鉄砲を武器にした「撃ち合い遊び」だ。あの遊びのことをなんと呼んでいたのかはもう覚えていないのだけれど、きっと適当に「戦争ごっこ」とでも称していたのだったと思う。やっていることは同じでも、それを今風に「サバゲ」などと呼んでしまうとそれは「アレゲ」(=「何だか、ちょっと言い難いけど、アレっぽいよねー」という程度の曖昧な言葉)な世界になってしまう。だから、やはりここは銀玉鉄砲で「戦争ごっこ」くらいの言い方にしておくと、その「戦争ごっこ」で使われる銀玉鉄砲の射程距離は子供心にもそんなに長くなかったような気がする。確か、かなりの至近距離でバンバンと撃ち合っていたような気もするし、少なくとも狙う相手が見えないような遠くから撃つものではなかった。それに、映画の「マトリックス」の一シーンではないけれど、自分を狙って撃った弾を何とか避けたりすることも(たまには)できたりしたような気がするから、きっと銀玉はヒョロヒョロの弾道を描いていたのだと思う。
 

 「できるかな?」では、以前「似て非なるモノ」の片割れ=金玉鉄砲の弾道計算をしたことがあった。その名前の響きも、その役割もほとんど同じ「似て非なるモノ=キンタマテッポー」の弾道計算をしたのであれば、せっかくだから今回はもう片方の「似て非なるモノ」=銀玉鉄砲の弾道計算をしてみることにしようと思う。
 

 まず、銀玉鉄砲で発射された銀玉の初速度(≒10m/s)と、銀玉の重さ(≒0.2g)というデータと、銀玉の直径が6mm強というデータを元にまずは銀玉の弾道を計算してみた。下のグラフは「無風状態で銀玉鉄砲を1.2mの高さで水平方向に銀玉を発射してみた時の銀玉の弾道」を示している。下に示した二つのグラフの中で、上のグラフは「空気抵抗を考慮した場合」であり、下のグラフの方は「空気抵抗を考慮しない場合」である。
 

銀玉鉄砲とエアガンの弾道(玉の重さ=0.2gの場合)
空気抵抗を考慮した場合
空気抵抗を無視した場合

 空気抵抗を無視すると、昔使っていた銀玉鉄砲の銀玉は7m程飛ぶことになる。しかし、実際には銀玉に空気抵抗が働くために、飛距離はそれより少しだけ短くなって6m程しか飛ばないことになる。とはいえ、空気抵抗のせいで短くなってしまった距離は高々1m程なわけで、実際のところ昔の銀玉鉄砲では空気抵抗はあまり影響していなかったのである。子供の頃の記憶を呼び起こしてみても、実際に銀玉はそんなに遠くまで飛んでいるわけではなかったし、この計算結果でも飛距離6mというと「十分遠く」まで飛んでいるとはいえなかった。だから、銀玉鉄砲のバネを改造して強くしてみたり、あるいは銀玉の重さを変えてみたりして、銀玉を遠くまで飛ばそうとした記憶がワタシにはある。その記憶に沿って、「銀玉鉄砲の銀玉の重さを変えてみた場合に銀玉の弾道がどう変わるか」を計算してみたのが下の三つのグラフである。
 

銀玉鉄砲の銀玉の重さを変えてみた
銀玉の重さ = 0.1g
銀玉の重さ = 0.2g
銀玉の重さ = 0.3g

 上のグラフを眺めてみれば、「銀玉の重さ」を軽くすると銀玉鉄砲の銀玉の飛距離はわずかながら長くなることがわかる。子供だった頃を思いおこしてみると、子供心に「銀玉の重さを軽くすると、遠くまで飛ぶハズ」という程度の曖昧な確信で改造をしていたような気がするけれど、アレは今考えてみても正しかったのだなぁ、と思うのである。もちろん、今では「銀玉鉄砲のバネのエネルギーが銀玉の運動エネルギーに変わるから、銀玉の重さの逆数のルートに比例して銀玉の初速度は速くなる。だから、空気抵抗が無視できる場合には銀玉が軽ければ遠くまで飛ぶ」と自然に考えるわけだけれど、少なくとも昔はそんなに淡々とは考えはしなかったのである。
 

 さてさて、そんな懐かしい気分から今現在に気分を強引に取り戻して、最近巷に溢れているという強力なエアガンと昔の銀玉鉄砲の弾道を比較してみたのが下のグラフだ。昔の銀玉鉄砲より50倍ものエネルギーがある最近の強力なエアガンの場合である。そんなエアガンでは、なんと銀弾鉄砲の5倍近く25m以上もの飛距離がある。現実の兵器の世界でも性能競争が激しく行われているのと同じように、おもちゃの玩具の兵器開発も激しいようだ。5mと25mでは大違い、まさに飛び道具である。ここまでくるとやはり「玉」ではなくて「弾」と書く方がふさわしいように思えてしまう。
 

銀玉鉄砲(初速エネルギー=0.02J)と
エアガン(初速エネルギー=1J)の弾道(玉の重さ=0.2gの場合)

 そして、ここまで強力になってしまうと、その特性も昔の銀玉鉄砲とは全くの別物になってしまう。その証拠に、先ほどの銀弾鉄砲の場合と同じように「発射する弾の重さを変えてみた場合の弾道」を計算してみたものを下に示してみよう。なんと、最近の強力なエアガンの場合は、弾の重さを重くすれば重くするほど遠くまで飛ぶのである。昔懐かしの銀弾鉄砲が銀玉を軽くすればするほど遠くまで飛んだのとは全く逆なのである。最近のエアガンのパワーがあまりに強力で弾の発射速度が速いために、空気抵抗による影響が支配的になってしまうのである。そのため、弾の重さが軽い割に直径が大きい弾よりも、重さの割に直径が小さい弾の方が遠くまで飛ぶようになる。
 

強力な(1J)エアガンで銃弾を撃った場合の弾道
弾の重さ = 0.1g
弾の重さ = 0.2g
弾の重さ = 0.3g

 こんな風に、昔の子供のおもちゃ銀玉鉄砲と最近の強力なエアガンはパワーがあまりに違うため、結局のところその特性は「似て非なるモノ」になってしまっている。「姿形はよく似ているのに、その特質をよく見てみると少し違っていて、その印象は結構異なるモノ」になってしまっている。単にパワーの大きさが違うだけで、そんな特性・印象の違いが生まれてしまったりする。子供と大人が大きさとほんの少しの特質が違うだけで結構違う(部分もある)のと同じなのである。

 そう、例えて言うなら銀玉鉄砲は「子供のおもちゃ」でエアガンは「大人のおもちゃ」なのだ。「言葉の上ではよく似ていて、実際のところもやっっぱりよく似ているのに、世間一般での印象が全く異なるモノ」になってしまっているのである。まさに、ギンダマテッポーは「子供のおもちゃ」でキンタマテッポーは「大人のおもちゃ」だったのである。そんなことを考えると、「昨日ワタシが散歩の途中に買ってしまった」のがギンダマテッポーで良かったなぁ、とつくづく思うのである。だって、「ワタシは散歩の途中に「大人のオモチャ屋」にふと足を踏み入れて、大人のおもちゃを買ってしまったのである」なんて言葉を聞く世間の印象はずいぶんと違うに違いないのだから。



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