2008-04-01[n年前へ]
2008-04-02[n年前へ]
■意外な「丸い磁石」の「着磁」分布
パーティションやホワイトボードに、紙などを張り付けたりするための「丸い磁石」を使ったことがある人は多いと思う。ところで、そんな「丸い磁石」はどんな磁石だろうか。磁性体を磁化することを「着磁」というが、あの「丸い磁石」には一体どんな風に着磁されていると思うだろうか?あの、まるで「コイン状の磁石」は一体どんな磁石だと想像するだろうか?
多分、2人に1人は、「コインの表側がN極で、裏側がS極なのだろう(あるいは、その逆なのだろう)」と想像するのではないだろうか、と思う。磁石の表から裏側へ、あるいは裏側から表側へ磁力線が繋がっているのではないか、と想像したりするのではないだろうか。
しかし、実はそんな風に磁力線が繋がっているわけでない磁石が多いのである。言葉ではうまく表現できないので、よくある「丸い磁石」の着磁状態を可視化した結果が右の画像だ。それを、大雑把に一言で言ってしまえば、N極とS極が何層にも(厚み方向とは直交した方向に)重ねられたバームクーヘンのような具合に着磁されているものが多い。2人に1人は「そんなの当たり前じゃないか」とも感じると思う。けれど、残りの2人に1人は「少し意外」に感じると思う。同じような「コイン状の磁石」でも、小さい頃に「算数セット」に付いていた「小さな小さなコイン状」の小さな磁石とは違うのである。
身の回りにあふれている「丸い磁石」の着磁状態を知ってから、下の動画を見てみれば、二つの磁石のくっつき方をとても納得することができると思う。「あぁ、なるほど、そういうことだったのか」と実感することができるのではないだろうか。
2008-04-03[n年前へ]
■「NHK連続テレビ小説」 と「11PM(EXテレビ)」
NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」が終わった。こんなにNHK連続テレビ小説を楽しみに・待ち遠しく観たのは、「ふたりっ子」以来だ。
NHK連続テレビ小説と言えば、東京制作と大阪制作が交互に行われているのが特徴の一つである。「ちりとてちん」は大阪制作の女性脚本家だったが、そういえば、「ふたりっ子」もやはり、大阪制作の女性脚本家という組み合わせだった。脚本が大石静だった「ふたりっ子」では、気の強い主人公と将棋の世界が魅力的だったし、脚本が藤本有紀の「ちりとてちん」は、いつでも弱気になりがちな主人公と、主人公を取り巻く人たち、そして落語の世界がとても魅力的だった。
そういえば、交互に「東京制作と大阪制作が交互に行われる」というと、「11PM(EXテレビ)」を思い出す。11PMは大橋巨泉(東京制作)と藤本義一(大阪制作)が交互に司会をする(もちろん内容の傾向もかなり違う)番組で、その後継番組だったEXテレビは、三宅雄二(東京制作)と上岡龍太郎(大阪制作)が交互に司会をする番組だった。どちらも、比べようもないくらいに大阪制作の方に、私はとても惹かれた。番組に詰まっている荒削りなアイデア・勢い、一見テキトーにも見える、けれど見るからに「その背景」へのこだわりと情熱を感じる(見せる)真摯な雰囲気がとても面白かった。
ひとつ、思うことがある。「ちりとてちん」にしろ、「ふたりっ子」でも、その結末をどこに置き、結末の先がどこに向かっているように見せるかは、脚本家自身が一番考えていることなのではないだろうか。
2008-04-04[n年前へ]
■「カード型磁石」の着磁状態を見てみよう
比較的平らな磁石、たとえば、「カード型磁石」の着磁状態を見てみると、意外な「丸い磁石」の「着磁」分布と同じように、N極とS極が何層にも(厚み方向とは直交した方向に)重ねられたバームクーヘンのような具合に着磁されているものが多い。たとえば、右の写真のような(広告を兼ねた)カード型磁石の着磁状態を見てみると、やはり、幾重にも重ねられたバームクーヘンのような具合に着磁されている。
まるで切り株の年輪をように、5mmおきくらいにN極とS極が交互に並んでいる。もちろん、N極S極N極S極…と並んでいるものが、いきなりN極N極N極N極N極…と並ぶはずもないのだけれど、何だか少し意外で面白い。
2008-04-05[n年前へ]
■「PowerPoint」から「他アプリケーション」を立ち上げる時のTips
WindowsでPowrePointで動画を使ったプレゼンテーションを行う時に問題になることは結構あるように思います。「動画のエンコーダ(展開プログラム)」「外部・内部ディスプレイ(もしくはプライマリ or セカンダリ以降のディスプレイ)の機能の違いやソフトウエア制限」「複数の動画再生をしたい」「(外部アプリケーションを使って)動画を再生した場合にPowerPointへの画面復帰が不自然になったりする」という辺りで、よく困ることがあります。
「動画のエンコーダ」や「複数の動画の再生を簡単にしたい」という場合に便利なのが、次のようなMS-DOSのバッチファイルを書き、さらにそのバッチファイルのショートカットを作ることで、PowerPointのオブジェクト(たとえば画像など)をクリックし、バッチファイル(へのショートカット)を呼び出す、というテクニックです。
start "" "C:\Program Files\QuickTime\QuickTimePlayer.exe" "C:\s1.avi"上のようなバッチファイル(へのショートカット)を使えば、QuickTimePlayerをPowerPointから複数立ち上げて、複数のAVIファイルを同時に並べて再生することができます。
start "" "C:\Program Files\QuickTime\QuickTimePlayer.exe" "C:\s2.avi"
バッチファイルを直接呼び出すのではなく、ショートカットを作り呼ぶようにするのは、コマンドプロンプトを表示させないようにするためです。右に示すダイアログ画面のように、バッチファイルの「ショートカットの実行時のプロパティ」を「最小化」にしておけば、QuickTimePlayer.exeを立ち上げるコマンドプロンプト(のような余計なもの)を聴衆に見せずにすみます。
というわけで、これは「バッチファイルのショートカットを(プロパティを設定した上で)使う」というPowerPointから他アプリを使う時のTipsです。もちろん、PowerPointから他アプリを使う時でなくとも、複数のアプリケーションや動画などを一瞬で同時に立ち上げるときにも便利かもしれません。
2008-04-06[n年前へ]
■「銀スクラッチ」と印刷の「見当違い」
小学一年生 四月号の冒頭は、「人気もの 入学おいわい! 4大ぎんはがし」というプレゼントコーナーだった。きらりん☆レボリューション / 恐竜キング / たまごっち / ポケモン という4大人気者を題材にした、銀スクラッチを使ったプレゼント特集である。イラストの中に、12~15個程度「銀スクラッチ」で隠された部分があって、そのうちの8割くらい(たとえば、10個程度の部分)の銀スクラッチをセロハンテープで剥し、「あたり」が多く出ればプレゼントに応募することができるのだ。
こういった「銀スクラッチ」は、後ろから強い光を中てると「(銀スクラッチの下に隠されている)こたえ」が浮かび上がって見えるものが多い。この小学一年生 四月号のプレゼントクイズの場合も、やはり後ろから光をあてると、答えが透けて見えてくる。右の画像は、きらりん☆レボリューション のイラストを白色LEDで背後から照らすことで、「あたり」と「はずれ」を透かし見た場合である。朱色インクで印刷された「あたり」と藍色インクで印刷された「はずれ」という文字が、やはり浮かび上がって見えることがわかる。
また、右の画像は、恐竜キング の場合である。やはり「(あたりを示す)ディノテクターのイラスト」と「はずれ ×」の違いを明瞭に見て取ることができている。それは、他の2つの たまごっち / ポケモン クイズでも同じである。
そんな風に、強い光などを使って「銀スクラッチ」の下にあるものを見ることができるわけだが、小学一年生 四月号の「銀スクラッチ」プレゼントクイズの場合は、そんなことをするまでもなく、実はこたえがわかるのだった。通常印刷部分と銀スクラッチの印刷がズレてしまい、位置が合っていないのである。つまり、「見当違い(何色も色を使う版画で「色合わせ」するための印を「見当」と呼ぶ)」なのである。だから、右の画像のように「あたりを印刷した朱色インク」と「はずれを印刷した藍色インク」が見えてしまっているのである。
しかし、実はこんな銀スクラッチの「見当違い」が、わざと行われているものだったりすると面白い。「小学一年生」たちに、考える力・想像する力を付けさせるために、正統派ミステリの「読者へのヒント」のごとく、わざわざ「見当違い」を行っていたとしたら…とても面白いと思う(もちろん、そんなことは現実にはないのだろうが)。
2008-04-07[n年前へ]
■「銀スクラッチ」と「夜空の星月」
「銀スクラッチ」と印刷の「見当違い」ではないけれど、どんな「銀スクラッチ」であったとしても、その下に描かれているものは、透けて見えてくるように思う。表面を眺め見た時に、何の違いも見えないように見えることがあったとしても、裏から光を当てたり見方を少し変えたりしてみれば、下に描かれているものは自然と見えてきてしまうことが多い。そういうことは多い。
手元にあったチラシの「銀スクラッチ」に白色LEDを背面から当ててみれば、どんな色のスクラッチ部分であっても、ハッキリと自然に透けて見えてくる。一見、色味がかった銀スクラッチの下にあるものは全然見えないように思えたとしても、やはりそれは透けて見えてくる。結局のところ、そういうものなのかもしれない、と思う。
(若狭塗箸で)研いで出てくるもんは、
この塗り重ねたもんだけや。
反射光と透過光は違う。だから、反射光では何の違いも見えないものがあったとしても、それが透過光で「違わず」見えるとは限らない。また、それと逆に、透過光では違いが見えなかったとしても、反射光では全く違うさまに見えることもある。
つまるところ、反射光と透過光は違うのである。他の光を返すものが反射光で、他の光を消さないものが透過光である。それは、似てもいるし違うようでもある。
反射光をたとえて言うならば、それは夜空の月や星に似ている。宇宙空間のどこかには太陽がいて、夜空の月や惑星はその太陽の光を反射しながら動いている。同じ夜空のどこかに、より強く光を反射するものがあれば、ほんの少しの光しか返さない小さな惑星を見ることはできない。そういうことは世界に多い、ような気がする。
人間も箸と同じや。
日常生活の中で、「明るい光」は必ず広がっていく。けれど、「暗さ」が広がることはない。「銀スクラッチ」を見るとそんなことを思い出す。そして、雨雲の向こうにあるはずの、夜空に浮かぶ星や月の姿をふと見たくなる。
一生懸命、生きてさえおったら、
悩んだことも、落ち込んだことも、
きれいな模様になって出てくる。
2008-04-08[n年前へ]
■「ホワイトボード」に「ラクガキ」をする
いつでも、何種類かの自作ホワイトボードを数枚持ち歩いている。B5サイズの小さなホワイトボードの場合もあるし、A4の下敷きサイズのホワイトボードの場合もある。
そんな小さなホワイトボードに、頭の中に浮かんだことを箇条書きにしてみたり、目の前にあるものを描いてみたりする。つまり、ラクガキをすることが多い。右の画像は、少し前に春先の大学の小教室で、A4サイズのホワイトボード描いたラクガキだ。
大学ノートの裏表紙に
さなえちゃんを描いたの。 一日中かかって
いっしょうけんめい描いたの。
でも鉛筆で描いたから
いつのまにか消えたの。
大学ノートの裏表紙の
さなえちゃんが消えたの。
もう会えないの もう会えないの。 二度と会えないの。
古井戸「さなえちゃん」
「落書き」「語源」という言葉で検索をしてみると、こんな言葉が出てきた。
「落書き(ラクガキ)」とは、本来書くべきでない所に、絵や文字などをいたずら書きすること。あるいは、その書いたもののこと。もとは「落し文」である。大学の教室でするスケッチは「本来描くべきでない場所にする落書き」ではないかもしれないけれど、本来描くべきでない場所「で」するラクガキ、に違いない。
教科書の隙間にラクガキをしたり、ノートに気ままにラクガキをしたりするのは、結構面白くて集中してしまう。その結果、目の前の講義からは落ちこぼれたりもするけれど、コキュコキュと落書きをするのは、やっぱり何か楽しい、と思う。
2008-04-09[n年前へ]
■「透明下敷きボード」と「原始的"Mixed Reality"」
「ホワイトボード」に「ラクガキ」をするで書いたように、小さなホワイトボードと色ペンをいつも持ち歩いています。大きなかばんには大きなホワイトボード、小さなバックパックには小さなホワイトボードが入れているのです。また、(もしも「白い板」だけをホワイトボードと言うのなら)さらにホワイトボードではないものも持ち歩いています。その一つが、透明なボード(透明下敷きに特殊加工シートを貼ったもの)です。
僕は考える。
そしてペンを持つ。
思いついたままノートに、
らくがきしてみる。
ウルフルズ「大丈夫」
といっても、実際のところ、この「透明なボード」はあまり役に立ちません。数少ない「役に立つ」場合のまず一つ目は「デッサン力がない人が、目の前の景色をスケッチしたい」という状況です。透明なボードを目の前の景色に重ねて、目に映る景色をボードに上にトレーシングするだけで、誰でも簡単に遠近・透視法ばっちりのスケッチを1・2分で描くことができるわけです。「どんな感じ」かは、下に張り付けた動画を眺めてみれば、きっとわかることでしょう。
左の上の動画は、現実の景色に「スケッチをした透明プラスチックボードを重ねてみたもの」ですから。”現実に人工の描画を重ねた”一種の「MR=Mixed Reality(複合現実)」と言うこともできるかもしれません。以前作った、「マンガの「吹き出し」型ホワイトボード」(他人や自分の心の中にあるイメージ・言葉を描き出すことだってできる優れものです)も、人力複合現実を使ったマンガ的コミュニケーション・システムです。
人力複合現実(MR)を描きながら、最先端技術を超原始的手作業で実現してみたり、超原始的作業を高度な技術を使ってマネしてみたりするのも楽しいのかな、とふと思ったのです。
誰もが胸にしあわせな世界の
イメージを描いて暮らす。
うまくはいかなくても、
まずは一歩ずつ。
答えはひとつじゃないから
ウルフルズ「大丈夫」
2008-04-10[n年前へ]
■江國香織の「情緒」と「論理」
落語のことを江國滋が語る本を読みたい、と思っている。けれど、残念ながらまだ読むことができていない。けれど、いつか「落語手帖 」「落語美学 」「落語無学 」といった江國滋が落語について書いた本を読んでみたい、と思っている。
江國滋の長女である江國香織(今では、江國滋が「江國香織のお父さん」と言われることの方が多くなってしまったくらいだ)が書く言葉は本当に素敵だ。情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。
なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉の一つ一つに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備わっている。双六風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。一片の隙間もないほどに、緻密に言葉が積み上げられているのに、江國香織が書き上げる文章は、奇麗なリズムで音が叩かれ・刻まれていく。数学的で、論理的で、必然性と因果性に満ちていて、そして丁寧で優しくみえる。
たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像 」
子供がそのまま大人になったような人、という言いまわしがありますが、あれは変だと以前から思っていました。誰だってみんな子供がそのまま大人になるわけで、それはもう単純に事実だと思うからです。
2008-04-11[n年前へ]
■「ムーディー勝山のプライベートマイク」と「いつでもどこでも」
アメトークの「子供売れっ子芸人v.s.人気なし芸人」で、子供売れっ子芸人たちが(いつでもどこでも子供たちにギャグを要求された時のために)ギャグ道具を持ち歩いている、なんていうネタを話していた。藤崎マーケットはランニング・シャツをいつでも着ていて、小島よしおはいつでも海パンを履いていて、ムーディー勝山はマイ・マイクを持ち歩いていて、にしおかすみこはマイ・ムチを持ち歩いている、なんていうネタだった。
「いつでもどこでもできる」というのは便利でもあるし、不便でもありそうだ。いつでもどこでも、本番状態だと、張り合いもあるだろうけれど、疲れてしまうこともあるだろう。そんなものを、そんなもののスイッチを楽しむことができるのが、コツなのだろうか。
2008-04-12[n年前へ]
■「色彩文化の変遷 年表」と「ファッション・ヒストリー」
日本塗料工業会が「色彩文化の変遷」という年表を出している。1870年から2008年までの「時代・風俗の歴史」「塗料産業と開発の歴史」「色見本帳の歴史」を並べ見ることができる「色彩文化の変遷」年表は、とてもとても楽しめる。
何が面白く楽しめるかというと、それは何より最上段「時代・風俗の歴史」の「その時代のファッション・流行色」に尽きる。
自分自身の記憶や懐かしさとともに、その時代を眺め、その時代の服や色や感覚(つまりセンスだ)を思い返すことができるのである。
1970年代後半の「ニュートラ・スタイル」、1980年代前半の"黒のモノトーン"の「カラス族」、1980年代後半の「渋カジ・スタイル」……。そして、「コギャル」に「フェミニンなエビちゃん系」「クールでワイルドなもえちゃん系」……。あなたは、どの時代を懐かしく思い出すだろうか。
自分の記憶に重なる「時代」、過去の自分自身の姿に重なる「時代」、それだけでなく、今も「その時代の好み」を引きずって生きている現在の自分自身にも気づかされる。それは、とても、味わい深いことだと思う。
2008-04-13[n年前へ]
■「幅広バルコニー(ベランダ)」と「冬の部屋」のヒミツ
街を歩いていると、「3.5m×3.5mの幅広ベランダ(バルコニー)!」というマンション広告を見かけた。広いバルコニーは気持良さそうだなぁ、そこでビールでも飲めばとても気持ち良いだろうなぁと思いつつ、その立て看板を眺めていると、ふと「このマンションは冬に湿気(しっけ)てしまわないだろうか…?」ということが急に気になりだした。
「日差しの科学」を読むとわかるように、夏と冬では日差しの角度が大きく異なる。暑い盛りの夏至ともなれば、太陽が一番高く上る南中の時刻には、(真上の)天頂方向から見て約11度の頭上から日光が強く差し込んでくる。その一方、寒い冬至の時期であれば、(天頂から)58度もの低い角度から、日光は斜めに差し込む。
だから、
夏至の時、窓の直上に約60cm程度のひさしをつければ、夏の日差しを部屋の中に入らなくすることがわかりますといいうように、上階にベランダ・バルコニーなどがあれば、それが庇(ひさし)となって、夏は日差しが部屋の中を暑く照らすこともなく、かといって、冬には斜めから差し込む陽の光が寒い部屋の中を暖めてくれる。
「日差しの科学」
それなら、上階に幅広3.5mのバルコニーがあるマンションなら、どうなるだろう。もちろん、夏の暑い日差しが部屋の中に入らないことは全く同じに違いない。しかし、冬の正午の日差しを計算してみると、部屋の中を太陽がほとんど照らさなくなってしまうことがわかる。たとえば、ひとつの階あたりの高さが2.5mほどである場合には、南中の時刻の太陽は部屋の中に50センチメートルほどしか、入ってこない。これでは、「寒く湿気た部屋」は暖まりそうにない…。
というわけで、「このマンションは冬に湿気(しっけ)てしまわないだろうか…?」と、自分の家でもないのにそんなことが気になってしまい、マンションの完成予想図を見ながら「日照シミュレーション」を頭の中で試み続けたのである。はたから眺めたとしたら、さぞかし、そのマンションに惹かれているように見えたことだろう。しかし、実はそんなこんなの「(余計な御世話の)日照シミュレーション」をしていたのだった。
2008-04-14[n年前へ]
■「バルコニー特許」の幾何学
建築基準法に基づいて建築物の容積率は決まる。それにしたがって床面積も決まる。
ところで、建築基準法上は「バルコニーのような外部に開放された部分は、幅2mまでは床面積には算入されない」という。そのため、
バルコニー面積が容積に参入されると、販売面積が減少し売れ行きが悪くなるため、必然的に世の多くのバルコニーは「幅2m以下」になっている。という。
「バルコニー特許」は、バルコニーの形状を工夫し、「幅2メートル以上だけれど、床面積には算入されないバルコニーを作る」というものだ。確かに、そう説明されて眺めてみると、4m×4mの10畳ほど広さのバルコニーが、(ほとんどの場所で)外部から幅2メートルの範囲におさまっている。
なるほど小さなアイデアのようだけれど何だかとても面白い。バルコニーの形状を、さらに形を変えてみたりしたならば、さらに有効利用できるようになったりすることもあるのだろうか。
2008-04-16[n年前へ]
■「二百三高地/八甲田山」と「ドラクエ3 黄金の爪取っちゃった状態」
大変な状況を表現する時、どんな言葉を使うだろう?たとえば、イライラするクライアントのもとに何人かで立ち向かわなければならない状況で、あなたなら、どういった言葉で「そんな状況を」描くだろう?
ある時、「まるで、二百三高地か冬の八甲田山みたいな状況だよね、これ」と、30歳ほどの人に囁くと、「えっ、何ですか、それ?」と言われショックを受けた。そこで、二十~三十歳くらいの人たちに聞いてみると、誰も二百三高地も八甲田山を知らない、という。
「それなら、どんな言葉がピッタリくる?」と聞いてみると、「うーん、バイオハザードのラクーン・シティでケルベロスが出てきた感じですかねぇ」という。
今度は、逆に……全然わからない。そこで、さらに「他には何か表現があったりしない?」聞いてみると、「あっ、ドラクエ3で、黄金の爪取っちゃった状態ですね!」ということになった。その言葉が出た途端、若い人たちはみな「そうそうそんな感じ」と納得しあっている。ドラクエ3 黄金の爪取っちゃった状態……って、どんな状態だったっけ……?
結局、40代~30代~20代のどの世代でも納得できる言葉は「デスマーチ」だということになった。日清~日露戦争とドラクエ3とバイオハザードが、そんな言葉を鍵にして重ね眺め直してみるのも、一興かもしれない。歴史年表を広げながら、「この時は、そうドラクエ3 黄金の爪取っちゃった状態だったんだよ」というような自由な授業があったとしたら、少し聞いてみたいような気がする。
2008-04-17[n年前へ]
■「バルコニー特許の限界」と「冬の日差しの限界」のヒミツ
「バルコニー特許」の幾何学を使うと、バルコニーをマンションの壁から4メートルほど突き出すことができる。ところで、この"4メートル"を「幅広バルコニー(ベランダ)」と「冬の部屋」のヒミツで書いたことと同じように、「冬の寒く湿気た部屋を照らす暖かな日差し」という観点から考えてみると、面白いことに気づく。
それは、バルコニーの幅(部屋からの長さ)が4メートルを超えると、(ひとつの階あたりの高さが2.5mほどのマンションであるならば)部屋に日差しが全く入らなくなる、ということである。逆に言えば、 「バルコニー特許」の請求項の範囲であれば、「バルコニーの幅を(部分的に)4メートル近くにも広げることができつつも、冬の日差しを(少しは)部屋に引き入れることができる」というわけである。「バルコニー特許の幾何学」と「冬の日差しの幾何学」を描き眺めてみると、何だか上手い関係になっていて面白い。
2008-04-18[n年前へ]
■「自分で作った道具」で「自分が作るもの」と「クラス分け」
よく、「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」と言われる。インターネット上の道具で言えば、ネット関連の日記ツールの「指向性」次第で、そのツールを使って書かれる内容は異なってくる、と言われる。もしも、繋がりを作るのが容易なツールであれば、繋がりを意識した内容になるだろうし、「意識して作業しなければ繋がりが作られないツール」を使うのであれば、あまり繋がりを意識した内容にはならない。コメントを重視した道具であればコメント主体になるし、コンテンツ志向の道具であれば、当然コンテンツが充実してくる。それは、自然なことだと思う。
なぜそれが自然かと言うと、多くの場合、道具が指向する方向を、それを使う人は意識するからだろう。その道具が得意な方向に、つまり道具が導く流れの(一言で言ってしまえば楽に作業できる)方向に、人の努力は向かう。だから、「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」のだと思っている。
少し前に、サーバアプリを(静的HTML+hns(hyper nikki system)から自作ツールに変えた時、つまりWEBサーバ側のコンテンツ作成ツールを開発しようとした際には、WEBサーバに「どんな内容のことを書き連ね・どんなものを溜めている(溜めたい)のだろうか」ということを考えた。「使う道具次第で、作る内容は違ってくる」のが真実だとしたら、どんな「道具を作るべきなのか=どんなことを(その道具を使って)作りたいのか」を考え直す作業をした。
「自分が何かを書くために、そのためのツールを作る」というのはとても新鮮な作業だった。なぜなら、結局のところ、それは「自分が何をしたいのか」ということを考える作業でもあったからだ。
サーバアプリはRailsを使って適当に作った。その構造を大雑把に言えば、画像アップロード・他サイトリンク(リンク先サムネイル作成/全文キャッシュ)などの機能を備えたContentクラスを作り、Contentクラスを継承して、Articleクラス(できるかな?)とMemoクラス(inside out)とBookmarkクラス(現状Tech-logs)があり、それら全てのContentを継承したクラス間をKeywordクラスが(Keywordクラス自身も含め)繋いでいる、という具合である。そういったクラス継承に頼った道具の造り・構造は、Ruby on Railsという道具をさらに使ったためである。(また、デザイン/CSSはtDiary系互換にし、自分でそういった作業をすることは止めた。)
Article(できるかな?)とMemo(inside out)とBookmark(現状Tech-logs) という各クラス分けされた道具に影響され、それまでとは書く位置づけ・方向性はやはり異なってきたように思う。inside outからは、コメント程度のBookmark的要素(現状Tech-logs)が消え、その分、Articleクラス(できるかな?)に近づき、Articleクラスからは、Memoクラス(inside out)的に書いた小品は消える、という具合だ。
とりあえず、自分のために作ったツールだから、自分が使うためには一番いい。けれど、クラス分けし過ぎたような気にもなる。本来、曖昧な境界線しかないものを、別なものとしてクラス分けしたことの弊害が、きっとどこかに出てくるに違いない。キーワードでその分離を補うことを狙ったのだけれど、キーワード連携ではどうやら力不足のようだ。
2008-04-19[n年前へ]
■「夜のコンビニ・デッサン」と「色々な世界を描くための秘密道具」
石膏のベートーヴェンや、皿の上の果物や、あるいは身近なモノをデッサンをしたことがある(あるいは、課題として与えられたことがある)人は多いと思う。芯が柔らかな4Bくらいの鉛筆や、パレットに載せた数色の絵具で、目の前に見えるものを描こうとした経験を持つ人は多いと思う。石膏のベートーヴェンを描くならともかく、色のついたモノを描かねばならない時には、いきなり悩んだりはしなかっただろうか。目の前に見えているモノを、手にした道具でどのように表現するか悩んだりはしなかっただろうか。
ケント紙のスケッチブックと4Bの鉛筆を手に持って、「目の前の赤いリンゴと、黄色いバナナはどちらが白いのだろう?どちらが黒いのだろう?」と悩んだりした経験はないだろうか? 色々な色をどんな風に限られたもので置き換えれば良いのか、全然わからないままに、適当に鉛筆を走らせた人もいるのではないだろうか? 夜のコンビニを、ケント紙に鉛筆で描いた「コンビニ#3」を眺めたとき、ふとそんな経験を思い出した。
描かれているのは、人通りの少なそうな道沿いに立つコンビニエンスストアで、青や赤といった色を白と黒の世界に置き換え描かれた世界は静謐で、まるで異次元の世界のようで、それでいて、とても「私たちの現実の世界」を忠実に描写しているように見える。
いつだったか、絵画の解説書を眺めていた時に、面白い描写と記述を見た。「面白い描写」というのは、絵の中に不思議な機械が描かれていたことで、「面白い記述」というのは、その道具が「目の前の景色をどのような色や明暗で表現すれば良いかを判断するために作られた光学機器である」という説明だった。その「連続色→離散色・明暗変換」の道具は、時代を考えればおそらく単純な色分解フィルタなのだろう。…ただ、残念なことに、その不思議道具(色分解フィルタ・ツール)が描かれていた絵が誰のどの絵だったかを忘れてしまった。時代背景を考えれば、17世紀後半から19世紀中盤くらいの絵だろうと思うのだけれど、誰のどの絵だったのかを全く思い出せないことが残念至極である。
人間の比視感度を考えると、(赤:緑:青=3:6:1くらいで)緑色の感度が高い人が多い。だから、少し赤味がかった緑色をしたサングラスでもかけながら景色を見れば、色の着いたリンゴやバナナや下履を簡単に黒鉛筆で「濃淡画像」として描くことができるのだろうか。
夜道、ふと横を見ると、「夜のコンビニを、ケント紙に鉛筆で描いた"コンビニ#3"」に瓜二つな景色が見えたので、ケータイでその景色を写してみた。そこには人も車も写っていて、そのまま私たちの現実の世界だ。けれど、それだけだ。"コンビニ#3"にある妙な存在感(あるいは不存在感)がそこにはない。それが、良いことか・悪いことかはわからないけれども。
2008-04-20[n年前へ]
■「サラリーマン工学に基づいたサラリーマン体操」と「サラリーウーマン工学に基づいたサラリーウーマン体操」
最先端のサラリーマン工学に基づいて開発された体操として、NHKが開発した有名な体操メソッドに「サラリーマン体操」というものがある。これは、「サラリーマン」に必要な、色々な動き・エクササイズを体系化したものであって、役に立つと同時に楽しくもなる不思議なエクササイズである。
しかし、世の中には「サラリーマン」だけでなく「サラリーウーマン」だって多い。そんなサラリーウーマンのための、つまり、サラリーウーマン工学に基づいているらしき「サラリーウーマン体操」を観察したことがある。
確か、大崎かどこかのビジネスビルだったと思う。ビルの中のレストランで昼食をとりながら通路を眺めていると、サラリーマンだけでなく、たくさんのサラリーウーマンが行き交っている。そんな多くのサラリーウーマンたちを眺めている内に、ある規則に気がついた。それは、こんな規則・法則である。
「サラリーウーマン体操」の法則
- 同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループが互いにすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは互いに「両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 30代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンたちは、互いに「両手をへそ辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
- 40代のサラリーマンと20代のサラリーウーマンたちが、同期らしき(20代の)サラリーマン・ウーマンのグループとすれ違う時には、(知り合いを見つけた)サラリーウーマンは互いに「片手を腰辺りの高さで、掌を揺らすポーズ(バイバイのポーズ)をする」
長時間にわたる観察の結果、その挨拶のサラリーウーマンたちの仕方は、次のようなサラリーウーマン工学に基づいているように見えた。一緒にいる人(連れ)が同世代の場合、サラリーウーマンたちは(見つけた知り合い)に最大限の挨拶をする=両手を肩の高さまで上げて、掌を揺らす(バイバイの)ポーズをする。この時、両手を肩の高さ以上に上げないのは、それではあまりに「手を振る行為」が目立ち過ぎるために、自分にも相手にもメリット(パフォーマンス/コスト)が少ないからに見えた。
そして、連れ(一緒にいる人)が同世代でない場合、サラリーウーマンたちは「見つけた知り合い」に対する挨拶度合いと、連れ(一緒にいる人)への気遣い(目立たなさ)度合いのバランス(シーソー・ゲーム)にしたがって、手を振る高さが変化するように思われた。連れが30代のサラリーマン(ウーマン)ならば、両手をヘソ辺りの高さで振るのが「ちょうど知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」であり、一緒の人が40代の年長者である場合には、片手を腰辺りの高さで(知り合いのサラリーウーマンに対して)振るだけというのが、「知り合いと年長者への気遣いの拮抗点」となるわけである。
連れが40代のサラリーマン(ウーマン)の場合、両手でなく片手だけを腰辺りの高さで振る理由は、その観察から明らかにすることはできなかった。それは、もしかしたら、(自分の、あるいは、相手の連れに気を使い)手を振る行為をさらに目立たせたくなかったせいかもしれない。……あるいは、もしかしたら、腰の高さで両手を振ったとしたら、ペナルティ・ワッキーの「芝刈り機」状態になってしまうかもしれない。
いつかまた観察する機会に恵まれたなら、今度はその秘密を探ってみたい、と思っている。
2008-04-21[n年前へ]
■1軸上に並べた「サラリーウーマン体操・挨拶編」
「サラリーウーマン工学に基づいたサラリーウーマン体操(すれ違い挨拶編)」を1軸上に並べ描いてみた。「知り合いどうしの気遣い」と「自分や相手と一緒にいる人を気にする度合」という2つの相反する基準を左右の軸にして、『知り合いのサラリーウーマンたちが、すれ違うときにする挨拶』を図示してみたものである。
絵心がないせいか、一番右のサラリーウーマンは「まるでホンダ・プレゼンツの"ASIMOロボット"」のようになってしまっていることはさておいて、この「サラリーウーマンたちのコミュニケーション」を眺めていて興味深く感じたことは、すれちがう「知り合いどうしのサラリーウーマン」が何の齟齬もなく「同じレベル」の「挨拶」をしあっていたことだ。
まぁね、日本の女が多重人格になるのも無理はない。これだけ言葉をつかい分けてりゃ、どうしたってそうなるわ。男の本音と建前なんぞ、女の多重人格に比べりゃ可愛いもんよ。
「ら抜きの殺意」 永井愛作
そこから透けて見えてくる絶妙過ぎる"コンセンサス"="同意"は一体どどれほど深いものなのだろうか。
男も、経済原則によって言葉を使い分けています。上司や部下、取引先の年上や年下の相手などです。けれど、この戯曲を読むと、女性ほど大変ではないと、しみじみします。
「名セリフ!」 鴻上尚史 p.77
2008-04-22[n年前へ]
■桜が散っている小さな神社の景色を描く
「透明下敷きボード」と「原始的"Mixed Reality"」と同じようにして、桜がずっと散り続けている小さな神社を描いてみる。そんな古い道沿いの景色をなぞってみる。
2008-04-23[n年前へ]
■「統計はビキニ水着」で「説明文は(ミニ)スカート」の法則
説明文の長さに関し、実に的確なアドバイスの一つが「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉だと思う。
Sentence length is like a girl's skirt: the shorter the better, but it should cover the most important parts.
(文の長さは女性のミニ・スカートのようなもので、短ければ短いほど良い。しかし、最も大切な部分はカバーしていなければならない)
ミシガン・メソッド(ミシガン大学で開発された言語教習の流儀)から広まった伝えられているこの言葉は、まさに必要十分な「長さ」の「説明文」である。
この「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉と良く似た表現を使って、「統計」というものをこれまた上手く現したものがある。それはこんな言葉だ。
“Statistics are like a bikini. What they reveal is suggestive, but what they conceal is vital.”
(統計というものは、女性のビキニ水着と同じだ。実に思わせぶりで意味ありげな魅力的なものがさらけ出されているがように見える。しかし、肝心な部分は隠されている)
Aaron Levenstein
しかし、考えてみればこの「統計はビキニ水着」「説明文は(ミニ)スカート」といった表現は、結構何にでも使うことができるものかもしれない。
「必要十分」が望ましいものに対しては、それがどんなものであっても「○×は(ミニ)スカートだ。長すぎても短すぎてもダメだ」と言うことができるだろう。
また、多くの商品・技術…つまりはほとんど全てのものが「○×はビキニ水着のようなものだ。…」という風に言うことができそうだ。たとえば、"Ruby on Railsはビキニ水着のようなものだ、なぜなら…" "ダイナミックリコンフィギュアラブル技術はビキニ水着のようなものだ、なぜなら…"という具合である。
実は、「ビキニ水着」でないものの方が少なかったりするのかもしれない。
2008-04-24[n年前へ]
■「困ります、ファインマンさん」と「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」の違い
一冊の本の内容を短くまとめると、「あらすじ」になり、本の内容を限りなく短く一言で言えば、それは「タイトル」になる。
物理学者ファインマンの人生を描いた本というと、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」
「困ります、ファインマンさん」が思い浮かぶ。前者「困ります、ファインマンさん」という本の原題は、"What Do You Care What Other People Think?"だ。「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」というタイトルと、「困ります、ファインマンさん」は何だかずいぶん趣が違う。
その違いがいつも気になってしょうがない。"What Do You Care What Other People Think?"という本の内容を一節の言葉にしたとき、それが「困ります、ファインマンさん」では、何だかとても違うようにも思う。「困りますねぇ」という言葉と、「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」という言葉の間には、非常に大きな隔たりがある。言葉の力が持つ向きが180度違うように思う。
そんな具合で、この「困ります、ファインマンさん」というタイトルは好きではないのだが、そんなつまらない気持ち以上に、この本に描かれている内容は大好きだ。パラパラと楽しみながらページをめくることができるのが「ご冗談でしょう、ファインマンさん」であるならば、一行一行をゆっくり読み進みたくなるのが"What Do You Care What Other People Think?"だ。
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を思い浮かべて、「困ります、ファインマンさん」というタイトルの本を手に取る人も多いことだろう。けれど、そのタイトルをにアレルギーを感じて「逆に手に取らない人」も多いかもしれない。けれど、そんな人こそ、この原題"What Do You Care What Other People Think?"という言葉を、誰が誰に向かってどんな時に口にしたのかを知るためだけにでも、この本を手にとって見るのも良いと思う。その意外な答えは、きっと、あなたを勇気付けると思う。
"What Do You Care What Other People Think?"
2008-04-25[n年前へ]
■「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描く
複素平面"complex plane"は、複素数"complex number"の実部をx軸(実軸=real axis)・虚部をy軸(虚軸 = imaginary axis)にプロットしたものである。3+2iという複素数であればxy平面にx=3,y=2にを示す、そんな平面が複素平面だ(iは虚数単位=2乗した時に-1になる数である)。
『「仕事」と「趣味」を2次元マップで1分以内に描け』言われたら、あなたならどう描くだろう?(同世代の)"Schemeを愛するプログラマ"が描いた「趣味と仕事の関係を描いた2次元チャート」を眺め、ふと私も「仕事」と「趣味」のイメージを2次元マップに描いてみたくなった。
趣味を訊かれるといつもちょっと困る。私には趣味と仕事の違いがよくわからないからだ。
Shiro Kawai
人によって「仕事」と「趣味」というものの捉え方は違うだろうけれども、できる限り一般的に「仕事」と「趣味」という領域を2つの軸上に配置させるとしたら、どのように「仕事」と「趣味」を描くだろう?そんなことを「クイズの回答者になった気分で」描いてみたら、それは「複素平面」だった。(その人自身に対する)実利的・物質的でまさにリアルな"Real axis"と、イメージ的な「心の軸」を示す"Imaginary axis"というまさに実軸・虚軸で表現された複素平面である。
この複素平面の縦軸(の上方向)は、自分の心を豊かにする軸と捉えることができるだろう。「虚」という文字よりは、"Imaginary"という文字で捉えたい「(その人自身の)心の満足」を示す軸、である。
そして、横軸(の右方向)は、その人自身を実利的に満足させる軸である。しかし、その自分への「実利」という軸は、実は他人が何らかの形で価値を感じたことを示す軸でもあると思う。なぜなら、その「実利」は「他者が得た価値」が回りまわって流れてきたものに違いないからである。他人が得た満足が姿を変えたものであるから、である。つまり、この複素平面の横軸は「自分への実利」を示す軸であると同時に「他者を豊かにする軸」なのである。
ひとことでまとめてしまえば、この複素平面は「本人(自分)の満足」と「他人の満足」という2つの軸で形作られる平面なのだ。
'Cause we are living in a material world. You know that we are living in a material world.
Madonna "Material Girl"
その人ごとに「仕事」と「趣味」の位置づけがあると思う。どんな軸を使って、どんな風に「仕事」と「趣味」を捉えるかは、みなそれぞれ違うはずだ、と思う。「自分の中で辛さを感じながら、実利を得る仕事」もあれば(右下の象限)、「自分自身の楽しさとともに実利を得る仕事」もあるはずだ(右上の象限)。そして、さらに言うならば、同じ仕事であったとしても、その仕事がどこに位置するかは、人それぞれ異なっているだろう、と思う。そして、同じ一人の人がする同じ仕事であったとしても、きっと「その捉え方」「その座標」は変化し・移動していくものだろう、と信じている。
俳諧で「虚実」ということがしばしば論ぜられる。数学で、実数と虚数とをXとYとの軸にとって二次元の量の世界を組み立てる。虚数だけでも、実数だけでも、現わされるものはただ「線」の世界である。二つを結ぶ事によって、始めて無限な「面」の世界が広がる。
寺田寅彦 「無題六十四」
もしも、上に描いた複素平面="Complex plane"、それを言い換えれば言葉通りの「複雑極まりない世界」の上に、今のあなたが抱えているだろう「仕事」と、あなたが楽しんでいるかもしれない「趣味」は、どんなXY座標上にプロットされるだろうか。"複雑極まりない"複素平面上に、あなたはどんな軌跡を描いているだろうか。
2008-04-26[n年前へ]
■魅力的な「鉄道グッズ大図鑑」
鉄道写真家としての10年間で、世界50か国で鉄道に乗った総距離数は10万キロメートルを突破したという筆者が、取材の途中で買った鉄道グッズが詰まっている「鉄道グッズ大図鑑」がとても楽しめる。
筆者は10年間の取材旅行中に1000点を超える「鉄道グッズ」を集めたという。そんなカラフルで面白そうなグッズが、フルカラー190ページの中にたくさん詰まっている。
これらのグッズを眺めるためだけにでも、世界の国へ行って、世界の鉄道に乗ってみたくなる。スイス国鉄の「モンディーン腕時計」や「ドイツ国鉄腕時計」のシンプルで美しい姿にとても惹かれる。
2008-04-27[n年前へ]
■水道橋博士と河合隼雄が語る「星座」と"Connecting Dot"な「日々」
20年くらい前に、こんな言葉を聞いた。京都府の山中にある学校の学園祭だったか、大阪市内のコンサート会場だったか、あるいは、武蔵野のどこかの学園祭だったか、…その言葉を聞いた場所は忘れたけれど、それは種ともこの言葉だった。
数字がバラバラに書いてあって、その数字を順番になぞっていくと最後に絵ができる"Connecting Dot"ってパズルがあるじゃない? バラバラだったりしても、途中で間違っているように思えたりしても、色々と続けていたら最後に何か浮かび上がってきたりしたら、それで良かったりするのかな?って時々思ったりするの。この言葉を聴いてから、"Connecting Dot"というパズルを見ると、そのバラバラに散らばった数字が「人の一生」に見えてしょうがない。
種ともこ
「河合隼雄 その多様な世界―講演とシンポジウム 」を読んでいたとき、河合隼雄が語るこんな言葉を見た。
(目の前にいる人・目の前にある悩みを)ボーと見ていると、おもしろいものが見えてくる。その面白いものが見えてくることを"コンステレーション"と呼びます。"コンステレーション"というのは「星座(を意味する言葉)」です。この言葉とよく似た言葉を、お笑いコンビ「浅草キッド」の片割れの水道橋博士が、1年ほど前にインターネットラジオで語っていた。
河合隼雄 「河合隼雄 その多様な世界―講演とシンポジウム 」
星が散らばっている時、その星を結んだ瞬間が一番楽しい。この「星」というのは、誰かの「足跡」ということである。ただ眺めてみた時には、それらの足跡の集まりは 、何の姿も持たない「空に散らばっている星」にしか見えない。けれど、その人の足跡・星を結んでいくと、そこには、ただの点でも直線でもない「その人の姿」が浮かび上がってくる、ということだ。
浅草キッド 水道橋博士
私たちは毎日走り続けている。時には、立ち止まったり、ゆっくり歩いてみたりしながら、流れる時の中で、何かの歩みを続けている。あるいは、好む好まざるに関わらず、移り流れゆく世界の中で、泳ぐことを続けている。その軌跡は、一体、どんな星座を描くのだろうか。
2008-04-28[n年前へ]
■コトバを集めた"Logo"クラス
Contentクラスを継承したクラスを一つ増やしました。ふと思い出した言葉、眺めた後になぜか気になる「印象的な言葉」をメモするためにLogoクラスを作り、http://www.hirax.net/logos/から読むことができるようにしました。たくさんの人たちの言葉、短いけれど書き留めておきたいと感じた言葉を、ただ集めただけのページです。
2008-04-29[n年前へ]
■「手作り三次元グラフ」と"Life Work"
少し前に、「仕事」と「趣味」を、「本人(自分)の欲求」と「他人の満足」という2軸で表される実軸・虚軸で表現される複素平面に描いてみました。注釈を付けるまでもなく、この「仕事」も「趣味」にもカッコ(「」)が付いています。
カッコは、時に「いわゆるひとつの」という程度の意味を表したり、あるいは、時に「私の感じる言葉とは違うけれども、その人の使う言葉の定義に沿って使って・考えてみれば」というような意味合いで使われることがあります。だから、カッコ(「」)付の言葉が出てきた時には、あるいは、カッコ付の言葉とカッコが付かない言葉が同時に出てくる文章を読むときは、このカッコは何を意味しているんだろう?と考えると、その文章から何だか不思議な立体感を感じたりすることがあります。もしかしたら、それが文章の書き手の中の意識、書き手が眺めるものの距離感なのかもしれない、と感じます。
さて、「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くを書いた次の日、"Life Work"という言葉を使ったら、どのようなことを思い、どのようなものを描き・書くだろうか、と考えました。「仕事」という言葉から、"Work"という言葉を経て、"Life Work"ということを考えたらどう思うだろう?と感じました。
そして、もう一つ、「"自分(本人)の欲求・満足"と"他人の満足"という2軸で表される複素平面に、少なくとも"時間軸という軸を一つ増やしたい」とも強く思いました。私たちを大きく支配する軸でもあり、私たちにとって希少なものでもある"時間"という軸を増やしてみたいと、思ったのです。
そこで、そんな三次元空間を「ホワイトボード」と「色粘土」と「焼き鳥用の串」で作ってみました。下の写真が、その手作り”三次元空間(複素空間)”です。
誰かが行う何かの作業を考えたとき、この空間はその誰かの作業に対する"ある3つの軸による評価値"を示したに過ぎません。他にも数限りない色々な軸があり、色々な眺め方・受け止め方があるように思います。
また、同じような作業であったとしても、その作業をする人によって、この空間での「座標」は異なってくることでしょう。それは、たとえば「梅宮辰夫の"釣り"」と「釣キチの"釣り"」が、その作業内容が同じようなのに、商品価値(黒い横軸)としては大きく違ってしまうようなことです。
試しに、今の時点での「梅宮辰夫の"釣り"」を緑色の球で、「釣キチの"釣り"」を黄色の点で手作りプロットしてみました。もちろん、材料は色粘土と焼き鳥用の串です。
そしてまた、時間軸に沿って、誰かが行う同じ作業でも、その位置・取り扱われ方が異なってくることもあるでしょう。10年後にも「梅宮辰夫の"釣り"」が今と同じ商品価値を持っているとは限りませんし、逆に、「あなたの知り合いの釣キチの"釣り"」の方が他人に満足を与えているかもしれません。あるいは、ゴッホが生きている時点では、ゴッホの"Art Work"は収入源とはとても言えなかったわけですが、現在では、ゴッホの絵画を見るために人が集まり、その絵画を手に入れるためにたくさんのお金が集まります。
つまり、"誰かが行う何か"を示すこれらの点は、時間を経て動いていくのが普通だと思います。時代の変化にしたがって、何一つ違わない同じ"誰かが行う何か"なのに空間中を移動していって、商品価値を失ったりすることは、よくありそうに思われます。
また、その人の技術の向上といったさまざまなことを理由にして、これらの焼き鳥の串に刺さった色粘土、・・・じゃなかった、その人の作業自体が変わり、この空間における位置づけを変えていくこともよくあることだと思います。
先のことは、誰にもわかりません。「確か」でないことは、世の中に満ち溢れています。「この努力が報われる日が来るのだろうか?」「この釣り番組はいつまで続くのだろうか?」「(定年がある人であれば)定年の先には何があるんだろう」といったことをふと考えて、不安が沸いてくる人も多いことでしょう。
そんなことを考えているうちに、"小説家になりたい"という言葉に強く頷く人もいれば、"それじゃ意味がわからないよ。どんな小説を書きたいのさ?"という風に感じる人もいるだろうな、というようなことが何故か頭の中に浮かんできました。そして、さらに「"Life Work"って何だろう?」「"Life"って何だろう?」と、今更ながらに思ったのでした。
若き二ツ目が、さまざまな努力と工夫を重ねて暗中模索する姿を、私は美しいと見る。陽の当たらない場所で悪戦苦闘する二ツ目の中で、誰が将来の名手になるか。こればっかりは絶対にわからない。若くして天才ともてはやされた麒麟児が老いて駄馬になったり、ヘタクソの見本みたいだった人が五十代になって突然名人の域に飛躍したりする例が、落語家には少なくないからである。
江國滋 「落語無学」
そうそう、とりあえず一つだけ確実なことを見つけました。それは、「粘土遊びは楽しい」ということです。色鮮やかな粘土で、色んなものを作って遊ぶのは、とてもワクワクする、ということは「確か」なようです。
2008-04-30[n年前へ]
■「強いパンチを打つ方法」(物理編)
ジャッキー・チェンのカンフー映画の中だったか、格闘技の解説書の中だったか、あるいは、力学の教科書か何かの中だったかは忘れたけれど、こんな「強いパンチを打つ方法」を聞いた(見た)記憶がある。
(たとえばパンチのような)強い打撃を与えようとする時には、”打撃を加える瞬間に体を伸び上がるようにするべし”あるいは"一瞬体を伸び上がり体を浮かし、着地する瞬間に足元を蹴りながら、打つべし"
特に、自分よりも体格の良い(体重がある)相手に対するときには、この技巧を忘れてはいけない。
この言葉がいわんとしているのは、多分こんなことだったと思う。
自分より体重のある相手に打撃を加えても、相手は動かず自分自身が後ろに下がってしまう。それは、重い荷車を押そうとしても、足元が滑ってしまい、荷車を前に押し進めることができないようなものである。
あなたの足元が動かないようにする力、言い換えれば、自分の足と地面との「摩擦力」は、摩擦係数とあなたが地面を押す抗力に比例する。ということは、足元が動かないように、足元が滑らないようにするためには、「あなたが地面を押す抗力」を増加させれば良いのだ。
かといって、その瞬間だけ急に体重を増やすわけにはいかないから、”打撃を加える瞬間に体を伸び上がるようにしたり”"高いところから着地する瞬間に足元を蹴る"ことで、自らの足が地面を押す力を高めるようにすれば「強いパンチを打つことができる」ようになるということを、先の言葉は伝えようとしているわけだ。
しかし、この「きわめて物理的な強いパンチを打つ方法」には、重大な弱点がある。それは、「パンチを打つ前後には体が浮いてしまっている。そのため、そのパンチを打つ前後の瞬間に攻撃されたら、ひとたまりもなく倒されてしまう(踏ん張ることができない)」ということである。
よく、「必殺技を繰り出す前後に無防備な瞬間がある」というような設定のマンガを見かけるような気がするけれども、そんなことを今更ながらに思い出す「強いパンチを打つ方法」(物理編)なのだった。